稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

最終回 エピローグ

「スケートの大衆化という云う題材こそ私がいつも夢に迄えがき、念願していたことの一つでありスケートを押し、スケートに生きようとする私にとつてそれは最も重大な課題であろうと思います。私はいつも心の片隅に一つの夢を画いて居りました。一人でも多くの人々の夢にこの楽しいスケートの味わいを刻み込んでいただいて、そして老いも若きも、全ての人々が軽快なリズムに乗つて楽しくリクリエートしている姿でした。このような夢が絶えず私の心の中に入界していたというのも、これ迄ともすればスケートを特権階級やインテリ階級のスポーツのみしか受け入れなかった一般の空気に対する私のレジスタンスであつたのかもしれません」(1953年「スケート」誌 稲田悦子寄稿より)

 

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政雄の職業はカメラマンで、収入は不定期だった。

「稲田悦子の名前で食べているんだからね!」

という悦子の意見で、夫のほうが稲田姓になった。入籍した2人は、港区の「三田マンション」でヨークシャーテリアのビリーと共に、暮らしはじめた。

悦子は50歳になったとき、青山の一角で輸入ものの高級洋品店「エレガンス」をオープンさせた。

扱っているのはセリーヌ、ロベルタといった有名ブランドばかり。値札のゼロは他で見るよりもひとつ多い。仕入れは夫に担当してもらった。

悦子はどんなに忙しくても、必ず日に1回は「エレガンス」に顔を出す。

 

「そうなの。ウチは技術提携して日本で作った品物は、置かないのよ。全部、輸入品ですからね。ホンマモンは、それにしかない値打ちがあるんです」(1982年月、「マリ・クレール」誌より)

 

東京暮らしも長くなった。悦子は山の手言葉と大阪弁の両方をきれいに使い分ける。

「きどって東京弁を使ってもどことなくいけまへんわ。いいと思うのは男の東京弁、女の大阪弁や思います」

正雄は人はよいのだが、どうも生活力において頼りない。なので悦子の身に何か起きると、歴代の弟子たちが結集した。

選手に同行して海外に行くときは、弟子たちが留守を守る。愛犬ビリーの面倒だって交代でみた。

一度、空き巣に入られた。

ちょうど浩宮礼宮のコーチをしている時期だったから、週刊誌の「今週の話題」に取り上げられた。

記事によると、悦子が午後9時半ごろ帰宅すると、ドアの鍵がかかっていない。中は電燈がつきっぱなしで、部屋中に衣類がぐしゃぐしゃに散乱している。

いちばん最初に心配したのは、ビリーのこと。寝室をのぞくと、ベットの上にバックが投げ出され、中からくーんくーんと鳴き声がした。

「ちゃっかりしているというのか、そんな状況の中でも、そのかっこうを見て、思わず笑い出しちゃったの」

すぐに110番した。三田警察署に調べだと、被害は現金18万円。前年の暮から都心の高級マンション専門に荒し回っている空き巣で、その手口はドライバー一本でマンションの部屋に侵入し、金品を盗む。同じ手口ですでに60件以上の犯行を重ね、なぜか日曜日と雨の日は姿を現さない。

「すんだことだから、くよくよしても仕方ないわよ。それより誰もケガをしないだけで、みつけものと思わなくては・・・」

その後、「遠くても海が見えるところに住みたいわ」と言って、千葉県幕張のほうに高層マンションを購入した。

スケートの教え子の一人に、「ブルーライトヨコハマ」という歌で有名になる石田あゆみがいた。

悦子は1968年、あゆみの姉の石田治子をグルノーブル五輪に導いている。このときフィギュアスケート選手団は、満州で一緒に練習した小塚の息子、小塚嗣彦と山下艶子の長女、山下一美。さらに樋口豊と大川久美子(現佐藤信夫夫人)という面々だった。

ちなみに石田4姉妹の末子の結婚相手が直木賞作家のなかにし礼。彼の小説「てるてる坊主の照子さん」が「てるてる家族」というタイトルで、2003年の9月からNHK朝の連続ドラマ小説になった。

悦子が品川のスケートリンクで指導した石野陽子が、稲田役を演じることになり、

「稲田先生はいつも竹刀を手にして、教えていたんですよ」

という提案した。さっそくドラマでも竹刀で教えるシーンが採用が加わる。

この頃、悦子はどうも体調がよくない。前年にアメリカに行ってヘルニアの手術をしたせいだろうか。

「ちょっと病院にいって検査してもらいます」

と練習を休むようになる。

てるてる家族」の放映日には間に合わなかった。

2003年7月、入院先で弟子たちに囲まれながら、79歳の生涯を閉じた。

胃がんと診断される直前、その年の5月まで、神宮スケート場では、大声が轟いていた。

同年の12月、安藤美姫全日本フィギュアスケート選手権で初優勝を果たす。

カーテンがさーっと両側に開き、黄金時代の幕開けとなる。

悦子は長野の新人強化合宿で安藤や浅田舞・真央姉妹を目にしたときから、新しい時代の到来を予感し、確信していた。

 

「私にとってスケート?それはもう、すべてよ。大阪朝日のリンクで滑りはじめた頃、まさかこれが職業になるなんて予想していなかったけれど。

他になんにも取り柄がなかった。私はでっ尻鳩胸大根足の日本人体型だし、顔だってとくに美人でもないし、家柄がすごかったわけでもなく、ずばぬけた才能があったわけでもなんでもない。なのに、とことんスケートに打ち込んできたから、たくさんの人との出会いがあり、たくさんの人に助けられて、自分が好きなことをして、生きてこれたんだもの。私の友だちは男が10、女が7。そのうちお金を借りることができるのは、10人ぐらいいると思うわ。借りたことないけどね。お金は足りているけど、小さい頃のスケート靴が残っていたら、私にくださいね。男物の小さいのってなかなか手に入らないから」(稲田悦子談)

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かつて大阪朝日のビルで悦子と一緒に滑っていた山口誓子。彼が第一歌集「氷港」に載せたスケートの連作は、俳句に革命をもたらした。

それまでは正岡子規から引き継いだ高浜虚子たちの「ホトトギス」が、俳句界の主流だった。四季折々の風光明媚をやわらかく唄いあげる。そこから離脱した誓子は、「馬酔木」に加わった。

近代的な新しい素材を取り込み、映画のモンタージュの技法「写生構成」を多用する。きらびやからで、俗っぽい都会の美をふんだんに散りばめた。

 

アサヒ・スケート・リンク  山口誓子

 

スケート場四方に大阪市を望む

スケートの紐むすぶ間も逸りつつ

スケートの真顔なしつつたのしけれ

スケートの君横顔をして憩ふ

汚れたるスケート場は黄となんぬ

四方の玻璃スケート場を映す夜ぞ

 

この句の視界にはおそらく、幼い日々の稲田悦子がいたはずだ。

誓子は幼い頃から喘息もちで、屈強のスポーツマンというわけではなかった。

喘息をもった子どもがスケートで身体を鍛えるのは、今でもよくある。空気がひんやり湿っているから気管にやさしいようだ。チームスポーツではないから、自分のペースでできる。テニスのように相手がいらないところもよかった。

誓子が勤務する住友合弁会社は大阪朝日ビルは近い。ほぼ毎日、仕事が終わると夜はスケートに通う。面白くってしかたがない。そこで知り合った稲田の父、光次郎は趣味人で、俳句もつくり、後々まで付き合いはつづいた。

さらに、誓子は尾崎秀実と東京帝国大学の同窓だった。秀実の兄、尾崎秀波( ほなみ)は誓子と同じ住友系列の会社で働いている縁もある。

まだ秀波とは明治大学の学生だったとき、親同士のすすめで、いとこの英子と結婚した。英子が弟の秀実の恋に落ちると、兄弟の母親は新しい嫁を探して、秀波を再婚させた。

にもかかわらず、尾崎兄弟は周囲が驚くほど、仲が良かった。

もちろん子供だった悦子はそういう諸事情は知らなかった。

尾崎は最初に悦子のことを取材してくれた記者だ。朝日新聞をやめて近衛内閣の嘱託になるまでは、ちょこちょこ顔をだしてくれたことを記憶にとどめている。

目が細くてやさしそうだった。鼻がやや上のほうからはじまっていたので、「ぞうのおじさん」というあだ名をつけていた。

はじまりは、たったひとつのスケート場、20メートル平方の氷上という空間にすぎなかった。そんな氷の上から、千や万の出会いとドラマが生まれたものだ。なんとまあ、これが歴史の萌芽というものなのか。

誓子の影響が強い作品が、京都帝国大学出身者のつくった俳誌「京大俳句」には、たくさん載っていた。代表的な傑作だけ引用しておこう。

 

 歌舞伎座スケートリンク  大阪 片山もも史

 

 シヤンデリヤスケート上の青き宵  

 スケートの渦がしづかに玻璃の中

 スケートの真顔ま顔が玻璃に来る

 

歌舞伎座スケートリンクの光景がリアルに眼前に浮かび上がってくる。

このシャンデリアの下で、悦子は佐藤節らとここでレッスン漬けの日々を送り、オリンピックをめざしたのだ。

戦後は進駐軍に占領されてしまったものの、ビアガーデンに改造され、そこで出産した後も、アイスショーに出演した。

ホトトギス」の中国大連市からの句会報には次のような作品が載っている。

 

スケートの手を曳きつれし姉妹かな  大連 高林三代女

スケートの木の間に見ゆる車窓かな 紅石

スケートや唯一人なる洋婦人  晃水

 

何も知らされていない庶民にとって、広大な土地や仕事にあふれた満州はつかのまの夢。ヨーロッパそっくりの大連は「夢の国」そのものだった。

莫大な予算をつぎこみ、ヨーロッパの街並みや近代的な施設を作り上げた。とはいえ、しょせんは謀略のスタートでしかなかった。

ウソで積み重ねた謀略、火薬と血の匂い。真実を知らされたとき、せまりくる死への恐怖。

言葉をもたない大連港の桟橋は、それを予知していたのだろうか。。

悦子や小塚たちが練習した新京の東郷公園は勝利公園と改称された。中国を侵略した日本軍のことを中国人は「東洋鬼」と呼び、歴史でも「偽満州国」と振り返っている。

満州には負の歴史しか残っていないのだろうか。否、そんなはずはない。

日本軍が敗北した後、すぐに中国に平和が訪れたわけではない。さらにおびただしい血が流れた。

そして、今も世界のどこかで戦争がつづいている。

人間は愚かだから、同じ過ちを何度でも繰り返す。

本質では争いごとが好きなのだ。だからこそ、神は人間にスケートという文化をもたらしたのかもしれない。

氷の上では過去も未来もない。国籍や偏見もなく、いつも同じだ。

冬がくれば気温が零下まで池や湖が凍る。そこで大人も子供も氷に興じる季節の遊びは、その後もずっと変わらず永遠につづく。「国境」という線が引かれていない。

 

正岡子規と野球に興じた河東碧梧朗もスケートの歌を詠んだ。

 

音楽や氷滑りに人酔へる 

 

どの句を詠んでも、少女たちがそこで一心不乱に練習している透視図が浮かぶ。白い息や汗の匂いまでもがリアルに伝わってきそうだ。

 

「一日、正味、六、七時間は滑りまーすーう。好きでなンけりやア、とーてもやれませんワ・・・・・アハハハ」(稲田悦子インタビュー 雑誌「丸」昭和29年3月号)

 

どれもこれも彼女たちが生きていた証し、稲田悦子の時代と呼ぶべきなのだろう。≪完≫

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。いったん完結しましたが、ここから英語翻訳という作業が残っています。それと並行して稲田悦子先生を知る方たちへの取材はつづけていくつもりでいます。訂正箇所や思い出話などある方はぜひご一報ください。oyakoeigo1998@yahoo.co.jp今後ともよろしくお願いします。

Yoko Umeda