稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第21章 結婚と離婚、そして再婚

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1946年の8月15日、唐突に終戦した。神風は吹かなかった。

終戦に尽力した外務大臣は、あの東郷いせの父親、東郷茂徳だった。いせは結婚して、軽井沢で双子を出産したばかりだと聞く。

満州でいきなり終戦を迎えた日本人たちは、取り残されてしまう。守ってくれるはずの軍隊は住民たちを出し抜くように早朝、駅に集まり、鉄道で移動し、引き揚げ船に乗ってしまった。

残された人たちは財産を次々と没収され、名ばかりの収容所にほおりこまれた。そこで日本への引き揚げ船の順番を待つ。

収容所はまだましなほうだったかもしれない。

満州の奥地ではソ連兵の略奪や暴動,があった。日本人たちは飢えや疲労と戦いながら、徒歩や列車で旅した。

それは生き地獄のような光景で、自決するものは後をたたない。

泣く泣く子供を手放し、中国人に託した者もいた。

このとき悦子は23歳。すでに終戦の前の年の秋、満州を引き揚げ、奈良に疎開していた。満州のことや終戦のことになると口が重たくなり、なかなか話したがらない。

 

「だって、申し訳ない。なぜ私が生き残ってしまったのか。生き残った人間たちは皆、そういう思いを共有していると思います。たまたま運がよかった人間だけが日本に帰ることができた。終戦よりも前に内地に帰国した人たちは、まとまった財産を持って帰ったはずですよ。私はたまたま“もうそろそろ結婚して身を固めなさい”ということで、終戦前に帰国したんです。

ポツダム宣言を受け入れたのに、8月以降はソ連があちこちで参戦しはじめ、国境に近かった日本人は地獄だったそうです。一緒に働いていた北京の日本人はまだよかったほうです。1年ぐらいで引き揚げ船に乗せてもらうことができました。でも、奥地からは家族全員がそろって帰国されたのは珍しかったのではないかしら。皆さん、着のみ着のままで命がらがら、焼け野原になった日本に帰ってこられて、苦労していましたもの。

私はアイスショーであちこちを巡業したし、電信会社で働いていたから交換手として、満州樺太の日本人たちの声を聞きながら仕事していました。あの頃の電話はかかってくると、1本1本、交換手が手で回線をつなぐんですよ。台湾の日本人はもっと帰国が早かったそうです。満洲ソ連が攻めてきたから、大使館の方だって何年も帰れなかったり、本当にひどいことになっていたようです」(稲田悦子談)

 

終戦の年、11月8日。奈良県橿原神宮で、文金高島田を着て式をあげ、茨木悦子になった。

茨木家には家作や土地があった。ところが、戦後の農地改革でほとんどを失ってしまう。舅も姑も激怒して、

吉田茂進駐軍の言いなりやないの!」

結婚の翌年、悦子は男子の弘光を出産した、女中や姉やが大勢いたから、子育てはさほど大変ではなかった。

茨木家では使用人たちにはびっくりするほど、粗末なものばかり食べさせるのだ。

米は麦飯ばかり。おかずは漬物がちょっぴりと薄い吸い物だけ。

自分たち用には10品ぐらいのおかずを並べさせ、いつも食べきれないから残す。食べ残しは捨てずに、食卓の上におきっぱなし。ハエがたかりだす。それを使用人がこっそり食べてしまう。その繰り返しだった。米粒をたくさん茶碗につけたまま、

「ごちそうさま」

と言うのも信じられなかった。一粒でも残そうものなら、悦子の両親は、

「お百姓さんが必死で作った米を残すなんて失礼でしょ!」

と叱ったものなのに。

悦子の生家でも、女中や店員たちを雇っていた。母親のハツは必ず「家族と同じ」と言って、同じものを食べさせた。若い働き手が喜ぶように、腹もちがよく、味がいいものばかり、工夫して料理した。

「若い衆は美味いものを食べさせにゃ、うちに居ついてくれへんものなぁ。美味しいものを食べて、しっかり仕事してもらわないとね」

価値観が違う。茨木家では誰も働いていなかった。

チリ紙も新聞紙も床にそのまま捨てる。自分たちでは、ごみ箱に紙屑を捨てるという習慣もない。店も家事も人任せだったから、ふとんひとつたたむわけではない。起きたいときに起きて、寝たいときに寝て、食べたいときに食べる。

楽といえば楽。でも、本当にこのままでいいのだろうか。

「世の中、変わったのよ。私たちも働きましょう」

悦子は夫を励まし、洋裁店をもたせてもらう。

すでに「稲田時計店」はない。空襲が激しかったとき、建物疎開で解体させられた。

悦子は自分の姉たちに声をかけ、自らもミシンを踏む。洋服だけではなく、浴衣から何まで縫って、販売した。

しかし、夫はあまり動きたがらなかった。

まもなく大阪歌舞伎座のスケート場はサブリンクだけ復活した。米軍相手のビアガーデンでアイスショーを演じる趣向に改造されたのだ。

ビアガーデンだろうと、米軍相手だろうと、なんでもいい。

ともかくスケートをしたい、と思った。 

夫を説得して、2人でビアガーデンでアイスショーの仕事をはじめた。

「うちの悦子をビアガーデンみたいなところで働かせているって、どういうことなんですか?」

「あら、悦子さんが自分で言い出しだんですよ。きまぐれなんでしょうけど、修はよく付き合っていると思いますわ」

両家の親が衝突をくりかえし、悦子が間に立たされた。

1949年2月5日。茨木悦子の名で、久しぶりに国体に大阪代表として出場。優勝をさらった。規定は260点、フリーは172.4点で合計432.4点。悦子の長男・弘光は3歳になっていた。

かつて一緒に満州を慰問旅行した2位の加藤艶子(山下艶子)が272.2点だった。

 

「現在の女子フイギュア界は新人がでていませんから、私のような古い選手が出ていくらかでも刺激をあたえたいと思います」(「アサヒスポーツ」より)

 

 同年、第3次吉田内閣が発足し、中国共産党が北京を奪回。日本国内では下山事件三鷹事件が起こるなど、まだまだ日本は占領下で謎めいた暗い事件が頻発していた。

日米親善を兼ねた氷上カーニバルが両国メモリアルモールで開催された。ブルガー西川夫人、悦子と有坂のペアスケーティングがトリが大トリ。有坂、片山ら往年の五輪選手、これに12人のアメリカ人が加わって、華やかなイベントとなった。

この頃、松原湖の氷が割れて、練習中の明治大学の学生が死亡する事故が起きた。不幸なできごとだったが、このことが屋外リンク再開に拍車をかけた。

翌年の国体は欠場して、6月15日には正式に離婚が成立。

ケンカらしいケンカをすることもなく、話し合いで2年半で結婚生活のピリオドをうつ。

一人息子を連れていきたいのはやまやまだったが、茨木家はそれは断じて許さなかった。あくまで子供の親権は母親ではなく、婚家側にある。

当時は離婚で嫁が長男を連れて出ることはまず許されなかった。

大阪の生家は養子をとった姉の美智子が継いでいた。

「いつでも帰ってらっしゃいな」

と言ってくれたが、悦子は自分を試したかった。

 

「太ももをあらわにして、踊りまくるスケートが昔気質の婚家の母親には気にいらなかった」

とマスコミは勝手なことを書きたてた。

価値観があわなかっただけのこと。茨木家の人たちは狭量ではなく、息子と機会あるごとに会わせてくれた。

 

「私の離婚の真相でっか。新聞社ってどしてそんな事ばかり聞きたがるンやろ、私は皆さんがいわれるようにスケートするために主人と別れたんのと違いまっせ。別れたさかい、することのうてスケートやってますねん。私かて、そら、おんなやもん、いったん結婚したら一生懸命主人につとめんならんことくらい知ってます。人の噂するようないやらしいこと、こっから先した覚えなんかあらしません」

といってオパールの光る手で爪先を弾いて見せるのだった。

「まあ一言でいえば「生活の在り方」が違うとでもいうのでっしゃろか、何しろ、それも最初は承知で結婚したんやえど、先方が水商売の家でっしゃろ、ああいう世界に育った人の社会感覚とでもいうのでっしゃろか、地道に働くということの貴とさなんていうもの、てんで解からしまへんね。これではまるで生き甲斐があらしません。それに、実家と婚家の折合が悪うて、仲に入ってえろう苦労しましてん。このなったらこわれた茶碗みたいなもんですよって、いくらくっつけてもうまく行く筈があらしまへん。こら1日でも早う別れた方がお互いの為やおもうて、ええ、円満になっとくずくめで別れましてん。ありのまま書いてもらっても宜しいかって、ええ宜しおますとも・・・・」

機関銃のおうな少しだみ声の早口の大阪弁、少し受け口のしもぶくれの顔、笠置張りの大口、サザエさんを美人にしたような感じのする、いまの悦ちゃんである。(1951年「毎日グラフ」より)

 

婚家を出た悦子は一人で東京に向かった。

YWCAの女子寮で暮らし、洗礼を受け、教会で和子や来栖夫妻と再会を果たす。和子は亡き母雪子の影響で、昔からカトリックの信者で、「マリア・ドロテア」という洗礼名をもつ。

和子も来栖夫人も、面倒見の良さはあいかわらずだった。

和子は2男3女を育てながら、夫の多賀吉と共に、総理大臣になった父を秘書として支えていた。

「新聞なんて、パパの悪口ばかり書くんだもの。うそばっかりよ。もう読んだときは、悔しくて一人でわんわん泣いたりしたけれど、今はもう気にしないことにしているわ」

実父を早く亡くした多賀吉は義父の吉田茂を慕い、尊敬していた。最初は秘書官として、後には国会議員になって、私財をすべて注ぎ込む。

麻生家と吉田家の渋谷の家は焼け残っていたが、占領軍に撤収されていた。

首相官邸は5.15事件と2.26事件で血が流れた後、木造2階建ての「日本家」を新築していた。それも大部分が空襲で焼け落ちてしまい、鉄筋コンクリートの官邸もごく一部の部屋しか使える状態ではなかった。

昭和天皇から、

「浅香宮のところを借りてやってほしい」

というご依頼があり、家賃8万円で白銀の広大な屋敷を公邸代わりに借りていた。

たしかに住宅とは思えない。鉄筋コンクリート造の2階建て。地下1階もあり、3階には温室「ウィンターガーデン」が広がっている。アールデコ様式の粋を尽くした瀟洒な建物で、ドイツで見た豪邸とも決してひけをとらなかった。

内装がまた素晴らしく、フランスのインテリアデザイナーが手掛け、正面玄関にある女神像のガラスレリーフや大広間などのシャンデリアはルネ・ラリックの作品である。

和子は悦子にこう言った。

「広すぎるのよ。悦ちゃん、間借りしない?書生でもお手伝いでもなんでもいい。家賃なんていらないから、ときどきうちの子供たちにスケートを教えたり、宿題をみてくれたりしたら、ものすごく助かります」

主だった邸宅は占領軍の施設として徴収されていた。ところが、この浅香邸は政治の中枢部から少し離れたところに建っていたから、はずされたらしい。

のどかな武蔵野の面影を残して、タヌキやキツネが足跡を残す。

主に一階が大広間、大客室、大食堂などの公的スペースで、報道関係者の控室も玄関の横におかれ、電話が何本も引かれていた。

2階には宮家の私室が並んでいて、和子の家族たちが寝泊まりしていたから、悦子は台所の横の控室を使わせてもらった。ここだと裏口から人目にふれることなく、できるすることができる。

立派な玄関からそのまま広いホールにつながっていて、麻生家と吉田家、財界人や政治家やマスコミなど、ともかく人の出入りが激しい。新聞記者たちは誰も悦子が住んでいることには気がつかなかった。

吉田は懇意にしていた近衛文麿の遺族を助けるため、荻窪の荻外荘を借りていた。富士を斜め右に望む十二畳の日本間、つまり近衛文麿の自決した寝室で寝起きしていると、ときには幽霊らしきものも見たような気になる。

「近衛の幽霊なら怖いわけがない」

と吉田はうそぶいた。

浅香宮の邸宅3年ほど首相官邸として使われた後、民間の国土計画に売却された。

というのも、GHQ(占領軍)の政策に基づき、日本政府は、「財産税法」を制定。

土地や屋敷や別荘、先祖から伝わる骨董品など、膨大な資産をもっていた華族たちは、突如として全財産の9割近くを税金として要求された。

1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は正式に廃止へ。これがとどめをさした。

同年10月、昭和天皇の弟殿下たち、秩父宮高松宮三笠宮をのぞく、11家51人の皇族が皇籍を離脱させられた。

そんな中、民間人となった旧武田宮こと、武田恒徳が水を得た魚のように活動をはじめた。

もともと馬術とスケートが得意で、自らオリンピック出場をめざしたいほどの腕前だった。

陸軍騎兵学校の教官を務め、大本営参謀として、ガダルカナル作戦にも参加。

幸い高輪の本邸が空襲に遭わなかった。土地の一部を売却して竹田編機という編物機械会社を設立したものの、たちまち閉鎖に追い込まれる。

旧陸軍の飛行機格納庫をもらいうけ、後楽園の軟式野球場跡地に、1951年10月1日、日本で最初になる人工結氷のスケート場「後楽園アイスパレス」を建設した。

さらに、国際スケート連盟総会に出席。翌年の男子スピードスケート世界選手権大会を日本で開催したいと懇請し、実現の運びとなる。IOC委員を歴任し、国際スポーツ界においても「プリンス・タケダ」として知られるようになった。

竹田宮秩父宮も山王スケート場で悦子は何度もご一緒したものだ。さっそく声をかけていだたき、「後楽園アイスパレス」を練習拠点とし、指導者としての道も切り開いていくことになった。

 

ペアのパートナーをつとめた元全日本3位の小豆島藤丸との不倫が、新聞のゴシップ欄をにぎわせた。これはきっぱりと否定している。

 

「わたくし、世間様にやましいことはこれっぽっちもありえまえんわ」

 

スケートのために離婚したのではなく、離婚した後、自分に何ができるのか、自問自答したところ、スケートがあった。

とはいえ、復帰までは簡単な道のりではなかった。

突如として米軍相手にキャバレーで滑ったことが問題になり、1949年8月から翌年の3月まで、アマチュア取り消しの宣告を受けた。

1950年の夏には「前田悦子」という女性が札幌でボート事故死。「悦ちゃん」といえば、あのスケートの・・・・と勘違いした輩が多く、全国各地からお香典やお悔やみの電報が3か月ほど殺到した。

1951年1月には7度目の全日本選手権女子シングル優勝を飾り、悦子はミラノ世界選手権の代表に選ばれた。あちこちに頭を下げてまわり、旅費をつくって2月11日、イタリアに飛びたった。

すでに28歳。イタリアで開催された世界フィギュアスケート選手権に33歳の有坂隆祐と共に日本人選手として15年ぶりに出場した。23人中21位と良い結果は得られなかった。

ペア・スケーティングも有坂と一緒に練習していたのだが、手続き上エントリーが遅れたという理由で、出場できなかった。 

悦子はオスロ五輪を待たずに現役を引退。スピードスケートやスキーはともかく、フィギュアスケートの採点基準は細かな点でずいぶんと変わってしまった。

男子も女子もダブルアクセルを飛んでいる。日本ではまだ誰もこれを習得していなかった。

世界との差があまりに広く、かつ予算がなかった。このミラノ五輪の後、1957年まで日本のフィギュアスケートは誰も国際試合に出場していない。

1957年のコロラド世界選手権に男子が3人出場したものの、その後は1959年にコロラド留学中の荒木祐子が出場しただけ。

しかし、悦子は洋裁や他の仕事もしながら、こつこつスケートの指導とアイスショーをつづけていた。スケート人口を増やし、世界レベルまで引き上げたい。

スケート場で、もたついている初心者を見かけると、積極的に悦子のほうから声をかけ、気さくに手をとって、一緒に滑ってあげたりもした。

アイスショーに出演するだけではなく、宝塚歌劇団アイスショーのチームをもっていたから、関西にも定期的に指導や振付で通った。

大阪朝日では1952年から屋内スケート場が営業を再開。

小塚光彦の教え子の朽木久が、日本人としてはじめてダブルアクセルジャンプに成功。

かつて一緒に習った佐藤節も指導しはじめていた。その節が、

「息子が習いたがっている」

と連れてきたのが、佐藤信夫だった。

彼は日本人としてははじめて3回転ジャンプを習得。日本人としては24年ぶり、1960年のスコーバレー五輪に出場を果たす。

イングルブルック五輪では教え子の福島美和が5位入賞。リンクサイドで見守っていた悦子はもう演技の途中から涙がとまらなくなってしまった。

福島美和も引退するとコーチになり、信夫も娘の佐藤有香をはじめ、何人ものチャンピオンを世界に送り出す。

有香は米国人スケーターと結婚して、現在デトロイトを拠点に何人ものチャンピオンを育成している。

父と娘がコーチとして、それぞれ浅田真央、ジェフリー・アボットという生徒に引率して、ソチ五輪でリンクサイドに立ったことは記憶に新しい。

 

「昔の技術といまの技術?そら何ともいえへん。昔はもっと巧かったと思う種目もあるし、昔でかなんだものが今はでかるのもありますよっと、ただいえることは昔の私は鳴らった事ををのまま表現してたんやけど、それがいまはすっかり自分のものになったことやわ。よう仏作って魂入れずというけど、このごろやっと魂が入ったような気がしてま。ミラノ行の抱負でっか・・・。随分懐かしいこと聞くのんやな。抱負って別にあらしまへん。暮れにそんな話が出たときに、費用の工面からせんならんよって、あっちこっち頭下げて歩いたんやけど、つくづく子供の時が羨ましゅうなりましたわ。あのころは岡ねのことなんか考えんとただ滑ってさえいたらよかったんやけど・・・・・優勝するかって・・・・そんなことも全然考えてえへん。何しろ十何年も日本のスケート界はつんぼ座敷に座らせられてたんやよって、ヨーロッパのレベルが全然わからへん。来年オスロのオリンピックをめざすのには何ぼ何んでも心許なうてかなわんさかい、それまでに一遍、あっちゃの見学して来んことにはと思ってますねん。まあ出来るだけベストを尽くしてきまっさ。」(1951年「毎日グラフ」より)

 

 悦子は40歳になるまで、来栖家のアパートで父と暮らした。

というのも、悦子と同じ年に両親が離婚してしまった。母がどうしても「あの人とは同じ墓には入りたくない」と言って、養子の父を追い出してしまった形である。

山王ホテルに近い来栖家は軽井沢の別荘に疎開中、空襲できれいさっぱり焼けてしまった。

終戦の年、長男の良は福生の飛行場で「隼」機のプロペラに首をはねられ、凄絶な戦死を遂げた。そのことが家族に深い心の傷をのこす。

 吉田は総理大臣になったとき、外務大臣になってくれるよう、熱心に頼んだ。が、来栖は断った。前後して脳こうそくの発作に二度襲われ、寝たきりで、半身不随になってしまう。

とはいえ、終戦の年に生まれた孫の扶沙子が、借り住まいしている寺の一室で、よちよち歩きをはじめ、一家はやっと笑いを取り戻しつつあった。来栖はこんなノートを遺している。

「外交官になって、心の底から笑ったことが何度あっただろうか。もう長いこと、笑いを忘れてしまったような気がする。最後に笑うのはいったい誰なのだろうか」

まもなく来栖家では軽井沢の別荘を売り、空襲で焼けた土地に半分は自宅、半分はアパートを建てた。

悦子はその一室を借りて、父と暮らしはじめたわけだ。

アリス夫人は自宅のほうで「マミーの英語教室」をはじめ、悦子もそこで英語を習ったり、手伝ったりするようになった。

 

「戦後はもうあっという間、無我夢中の日々でした。マミー(アリス来栖)も和子さんも皆、大変だったけれど、がんばつていらして、つくづく生きてることのすばらしさを思い知らされました。

生きて虜囚の辱めを受けず、というのが戦前の教育でしたから、たくさんの方が自決されたのです。

良さんは外見は日本人ばなれしていましたが、8歳から日本育ちでしたから、中身はもう生粋ばりばりに帝国軍人でした。

マミーも片言の日本語でよく“ワタシハニホンジンデス。ボブ(アメリカンネーム)ハオクニノタメニナクナッタノデスカラ、カナシクアリマセン”と言っていましたが、やっぱり一人息子ですもの。つらかったと思います。

ただ終戦の年に初孫に恵まれて、それがかわいい女の子でね。よく教会に連れてきていましたよ。

戦争で死ななかった私たちは肩身が狭いところもありましたし、つらいことだってたくさんありました。でも、生きつづけていると、必ずいいこともめぐってくるんですね。

マミーは長生きして、1974年ぐらいに亡くなったと思います。和子さんがミサでスピーチされました。

ホント、長く生きていると、いろいろな出会いや感動に恵まれるものですね」(1953年「スケート」誌 稲田悦子寄稿より)

 

悦子が40歳になってまもなく、その父も胃がんで亡くなった。

半年ぐらいたったある日、顔なじみになったカメラマンの青年が映画に誘ってくれた。

悦子は忘れていたが、八日市の飛行部隊にいたから、面会のとき何度か見かけているそうだ。

「あれは有名な豆のえっちゃんか、とみんなが騒いでいましたからね」

彼には離婚歴があり、一人息子で母親と生活しているそうだ。

一緒に見に行った映画は1940年の作品チャプリンの「独裁者」だった。当時はドイツから厳重抗議があったが、ルーズベルト大統領は頑として跳ねのけ、ホワイトハウスチャプリンをよんで歓待した、いわくつきの作品である。

日本では陸軍がドイツとの連盟関係を考慮して上映許可をださず、1960年になって公開されたので、悦子はまだ見ていなかった。

父もこの作品を視たがっていたっけ。もっと早く連れていってあげたら、よかった。日々のレッスンやアイスショーといった忙しさにまぎれて、親不孝してしまった。

映画は独裁者のヒンケルと間違えられた床屋に扮するチャプリンが、最初はおずおずとふるまい、笑われる存在なのに、最後に演説するシーンが評判どおり、圧巻であった。

まったく古さを感じさせない。自由と民主主義と平和を守ろうと叫び、とても20年前に撮影されたものとは思えなかった。

 

「まっことに申し訳ないが、私は皇帝などなりたくない。それは私には関わりのないことだ。私は誰のことも支配もしたくない、征服もしたくない。できることなら皆を助けたい、ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も。私たちは皆、助け合いたいのだ。人間とはそういうものなんだ。私たちは皆、他人の不幸ではなく、お互いの幸福と寄り添って生きたいのだ。私たちは憎み合ったり、見下し合ったりなどしたくないのだ。」

 

悦子は遠いあの日、父親と行ったドイツへ思いを馳せた。あそこで、遭遇したたくさんのオリンピック選手たちの横顔・・・。なんとまあ、フィギュアスケートをとおして、いろいろな人と出会ったことだろう。

そうそう、5.15事件の後、山王スケート場で一緒になったのは、間違いなく。このチャプリンだった。

 

「この世界には、全人類が暮らせるだけの場所があり、大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれる。 人生は自由で美しい。しかし、私たちは生き方を見失ってしまった。

欲が人の魂を毒し、憎しみと共に世界を閉鎖し、不幸、惨劇へと私たちを行進させた。私たちはスピードを開発したが、それによって自分自身を孤立させた。ゆとりを与えてくれる機械により、貧困を作り上げた。

知識は私たちをシニカルにして、知恵は私たちを冷酷で、薄情者にした。私たちは考え過ぎで、感じなく過ぎる。

機械よりも、私たちには人類愛が必要なのだ。賢さよりも、優しさや思いやりが必要なのだ。そういう感情なしには、世の中は暴力で満ち、全てが失われてしまう。」

 

ミラノの世界選手権に行くとき、飛行機に乗った。快適な旅ではあった。

ふと来栖良の笑顔が思い出された。

もともと飛行機は人間の夢そのものだった。

来栖良は子供の頃、よく手製の飛行機を作って、坂の上から飛ばしていた。

なのに、飛行機は戦争の道具となり、人を殺すための武器となった。そして、良はプロペラで首を切断され、死んでいった。なぜ死ななければならなかったのだろう。

 

チャップリンの演説はつづく。

「飛行機やラジオが私たちの距離を縮めてくれた。そんな発明の本質は人間の良心に呼びかけ、世界がひとつになることを呼びかける。

私の声は今、世界中の何百万人もの人々のもとに、絶望した男性たち、女性たち、子供たち、罪のない人たちを拷問し、投獄する組織の犠牲者のもとに届いているはずだ。

私の声が聞こえる人たちに言いたい、絶望するな、と。」

 

ふと耳元で和子の声が聞こえてきたような気がする。

「2.26事件でおじいさまの前に立ったとき、私はもういったん死んで人間だと思うの。それから先はつらいことがあっても、あのとき一度は死んでいるのだから、と自分に言い聞かせると、乗り切れるようになったのよ」

 

そして、またチャップリンの声。

「私たちに覆いかぶさっている不幸は、単に過ぎ去っていく欲であり、人間の進歩を恐れる者の嫌悪なのだ。憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、奪いとられた権力は、人々のもとに戻されるだろう。

決して人間が永遠には生きることがないように、自由も滅びることもない。

兵士たちよ。獣たちに身を託してはいけない。君たちを見下し、奴隷にし、人生を操る者たちは、君たちが何をし、何を考え、何を感じるかを指図し、そして、君たちを仕込み、食べ物を制限する者たちは、君たちを家畜として、単なるコマとして扱うのだ。

そんな自然に反する者たち、機械の心を持った機械人間たちに、身を託してはいけない。君たちは機械じゃない。君たちは家畜じゃない。君たちは人間だ。

君たちは心に人類愛を持った人間だ。憎んではいけない。

愛されない者だけが憎むのだ。愛されず、自然に反する者だけだ。

兵士よ。奴隷を作るために闘うな。自由のために闘え。『ルカによる福音書』の17章に、「神の国は人間の中にある」と書かれている。

一人の人間ではなく、一部の人間でもなく、全ての人間の中なのだ。君たちの中になんだ。君たち、人々は、機械を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ。君たち、人々は人生を自由に、美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ。」

 

はじめてダブルジャンプが飛べるようになった日。ただもう、うれしかった。不本意な成績で終わったオリンピックよりも、悦子にはあの瞬間のほうが輝きに満ちていた。

だからこそ、スケートをつづけたかった。もう一度、オリンピックに行く日まで、やめたくなかった。口に出すことが許されない時代だったけれど、戦争が憎いと思った。ずつとずっとそう思ってきた。

 

チャップリンの演説がつづく。

「だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。 皆でひとつになろう。 新しい世界のために、皆が雇用の機会を与えられる、君たちが未来を与えられる、老後に安定を与えてくれ、常識のある世界のために闘おう。そんな約束をしながら獣たちも権力を伸ばしてきたが、奴らを嘘をつく。約束を果たさない。これからも果たしはしないだろう。独裁者たちは自分たちを自由し、人々を奴隷にする。今こそ、約束を実現させるために闘おう。世界を自由にするために、国境のバリアを失くすために、憎しみと耐え切れない苦しみと一緒に貪欲を失くすために闘おう。

理性のある世界のために、科学と進歩が全人類の幸福へと導いてくれる世界のために闘おう。兵士たちよ。民主国家の名のもとに、皆でひとつになろう」

 

 脱力感。映画が終わってからも、しばらくイスを立つことができなかった。

父が亡くなったときも、こんなには泣かなかったのに。涙腺がどうかしてしまったのかも、と思うほど、涙が頬を伝う。

正雄は悦子の肩に手をまわし、しばらく座ったまま付き合ってくれた。

「ねえ、正雄さん。あなた、私と結婚しません?」

悦子は口にだしてから、自分で自分に驚いてしまった。

「僕も同じことを考えていましたよ。そろそろ、桜の季節ですね。この時期の神宮外苑が僕は好きです。ひさしぶりに滑りたくなりました。」

「レッスンしましょうか?」

「ええ、予約したいですね。生まれかわっても、僕はあなたを予約したいと思います。」