稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第20章 戦時下のスケート

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日本の新聞には連日、来栖三郎大使の名前と顔写真が載った。

悦子のまわりの大人たちは、

「いっぺんアメリカはんを叩かねばいかんでっしゃろ」

ナチスドイツがヨーロッパを征服したのだから、日本もバスに乗り遅れないようにせんと」

戦争への賛同する声も、かなり多かった。

陸軍の機密日記によると、参謀本部では「来栖の乗った飛行機が墜落しますように」と祈りを捧げている。

開戦か。戦争回避か。

日本中で意見がまっぷたつに分かれた。

1941年11月3日早朝、息子の良に見送られ、追浜の海軍飛行場から飛び立った来栖大使は、台湾の岡山飛行場、香港、フィリピンのルソン島、グアム、ウェーキ、ミッドウェイ、ホノルル、サンフランシスコを経由して、15日にニューヨークのラガーディア空港に降り立つ。

飛行機からおりたとたん、新聞記者たちやテレビカメラに囲まれた。フラッシュがたかれ、マグネシウムの匂いと煙が漂う。笑顔をつくりながら来栖大使は、流暢な英語で丁寧に応じた。

「私は自分に課せられた任務がいかに困難なものか理解はしています。けれども、なんとしても成功へ導きたい。日本とアメリカ両国のために」

今や世界が固唾を飲んで、日本の大使の動向を見守っていた。

到着した翌日から野村吉三郎大使と共に、来栖大使はハル国務長官ルーズベルト大統領と会談をもつ。

「来栖のおじさまならば大丈夫。きっとアメリカとの戦争を回避してくださるわ。おじいさまがそう言っていたもの」

麻生和子はこんなことを口にした。

ところが、12月8日。

ワシントンにいる大使たちには何も知らせないまま、日本は真珠湾を攻撃した。太平洋戦争のはじまりである。

ちょうど飯塚の麻生邸では親戚一同が集まり、盛大な法事が開催されていた。早世した麻生多賀吉の父の命日だった。

途中で不意にサインが鳴り響き、ラジオをつけると、日米開戦したことを知らせていた。

男たちは誰も彼も、

「ばんざーい、ばんざーい」

と大喜びした。

大阪の商店街では朝から樽酒がふるまわれた。「稲田時計店」も宝石や時計を贈る人が多いせいか、朝から客足がとだえない。夜の提灯行列にそなえて、町全体が活気づいていた。

 

悦子の通う学校はクリスチャンのせいか、いつもどおりの授業だった。

午前中の授業を終えると、電車に乗ってスケート場へ向かう。

 

スケート靴の紐をぴしっと結ぶ。リンクに立つと、生きていく活力が湧いてくる。

 

氷全体を覆う冷気と透明な美。真っ白な氷の上に立つときだけ、いつでも心を真っ白にできた。

決してスケート以外、何もできなかったわけではない。

悦子は商家の育ちだ。料理や掃除、洗濯はもちろん、洋裁も和裁も祖母や母や姉たちに仕込まれた。とくに洋裁は得意で、好きだった。自分のスケートドレスやスーツぐらいは縫うことができた。

鉄がたりなくなると供出させられた。悦子は30ぐらいもっていた優勝カップやメダル類もすべて失った。

「いちばん大きなカップは全日本で優勝したときのの李王垠殿下杯でしたよ。飛行機になったのか、鉄砲の弾になったのか、手元には写真も優勝カップも何も残っていないから、残念でたまわないわ。

女学校に入って(梅花高等女学校)に入って、5年生で専門部の英語に進んだんだけど、この学科は敵国語を学ぶ、という理由で、つぶされてしまったの。

昔のことだったから、親同士が決めた婚約者がいたし、18歳なんて当時は結婚適齢期だったんだけど、私はまだそういう気持ちになれなくって。むこうもスケートをやっていた人だから、理解はあったんだけど、徴兵されていたから結婚したら姑たちと暮らさなくてはいけないでしょう。

国内のスケート場はどんどん閉鎖されて、六甲の山まで滑りに行ったりもしたけれど、氷が薄くて、ずぶ濡れになってしまったり、それで思い切って大陸で就職することにしたんです」(稲田悦子談)

 

親どうしが決めた婚約者、それが茨木修だった。。同志社大学フィギュアスケート部にいて、親戚筋にあたる。

20歳になるとすぐ「男子二十一兵隊検査」がある。修は滋賀の八日市にある第八航空教育隊に入隊が決まった。

 

悦子は姑に連れられ、面会日には会いに行く。

 

琵琶湖に近く、風が突き刺さるように寒い。

駅前からいきなり歓楽街で、遊郭が並ぶ。歌舞練習場や活動写真館で昼間からにぎわっていた。

江戸時代から近江商人たちで栄えた八日市。飛行場や軍施設ができたことで、さらに、にぎやかな街となった。

軍服姿も多い。加えて、工事関係者も多かった。飛行場は来たるべく本土決戦に備えて、拡張に次ぐ拡張がつづけられていた。

 

大将や連隊長クラスになれば、料亭やお茶屋にベンツやクライスラーで乗り付けていた。フィリピンを占領した際、現地のフォード社を手中にしたから、車はそこから送られていくる。

婚約者との面会といっても、悦子は挨拶の言葉をかわすぐらいだ。9割方の時間、姑が機関銃のような勢いで、息子と話しつづけている。

仲のいい母と息子であった。

お茶屋を経営する茨木家は戦争前も戦争中も羽振りがよく、生活苦とは縁がなかった。

 

「それがな、母ちゃん、遊郭といっても階級ごとに遊郭の登楼時間が決まっててな」

 

「あらまあ、そんな規則があるんか?」

 

「僕ら初年兵は昼間やから、休日しか行けへん。上等兵は夕方5時まで、下士官は夜8時までや」

 

「ばったり鉢合わせへんように配慮しとるんやろか」

 

「そやそや。将校はタテマエ上は遊郭禁止されとんねん。高い金を払うて、芸妓と遊ばないかん」

「そりゃま、うちらお茶屋は将校さんのおかげで、舞が舞いますからのう」

「陸軍しか知らんけど、海軍やったらバレたら免官ものらしいわ」

 

「免官というと懲戒免職かいな。厳しいのぅ!」

「でな、憲兵は“軍隊の中の警察官”やったさかい、“武士も食わねど高楊枝”らしいわ。下士官も兵もおらんようになった深夜にコッソリ行くそうわ」

 

「それはそれは、殿方なりに苦労してはりますな」

 

こんな会話に未来の嫁たる自分はどう加わったらいいのだろうか。

八日市航空隊ではおもわぬ出会いがあった。

「あれ、悦ちゃんじゃないか?」

ずっと高いほうで声がしたので、見上げたら身長175センチの来栖良がいた。なんと修と同じ第八航空教育隊にいたのだ。

「なんや、良。知り合いだったんか。えっちゃんは僕の婚約者や」

「ああ、そうだったのか、世の中、狭いなぁ」

幼い頃から大の飛行機好きだった良は、横浜高工の機械科を繰上げ卒業した後、川西航空機制作会社に入社したと、悦子も風の噂で聞いていた。

「来栖家の皆さん、お元気でいらっしゃいますか?」

「うん、今日は面会日だから、マミーたちはそろそろ来るんじゃないのかな」

 

そこへマミーこと、アリスが2人の娘を連れてやってきた。すでに日本人はモンペか黒っぽい着物がほとんどだったのに、アリスは金色の飾りがついた赤いドレス、ジェイとピアも毛皮のオーバーを着こみ、頭はパーマネントできれいにまとめられていた。

 

「良!アイミスユー!」

と英語で叫びながら、ママは息子に抱きつき、音をたててキスした。

アリスたちは悦子に気がつくと、偶然の再開を喜んだ。

「スケートの練習をつづけているのなら、軽井沢に泊まりでいらっしゃい。冬はそこら中スケート場ばかりよ。外国人が多いから、テニスコートも閉鎖になっていないし」

と言ってくれた。3人ともまだドイツから帰国したばかり。父の三郎だけが米国ワシントンで旧知の野村吉三郎に会う予定で、まだ日本に帰っていなかった。

これはずっと後になって、修から聞いた話だ。

あの後、良は上官たちから、

「おまえ、ドイツ人かと思ったら、アメリカ人だったのか」

と言われ、顔が変形するまで殴られたそうだ。

もっとも日本人の修も、1年目はほとんど毎日、殴られていた。鬼瓦のような顔をした炊事場の軍曹がとくに非道だった。

「初年兵はそういうものさ。大学出は目の敵にされる。靴をくわえて、犬のマネをさせられ、その後で殴られたりもしたんだ」

天皇陛下」という言葉を聞いたら、靴のかかとをあわせ、さっと右手をあげて姿勢を正さなくてはならない。

国民はすべて天皇陛下の赤子だと往復ビンタで教え込まれた。なので、ビンタされた後は、

「ありがとうございます」

と御礼を言わなければならない。

この第八航空教育隊には、写真館の息子だった三船敏郎が、八日市に転属になっていた。酒癖は悪くて、鉄拳制裁も日常だった。後に九州の特攻隊基地に回されて、「古参上等兵」のまま終戦を迎え、戦後は俳優になる。

良は1年後に、幹部候補生の試験を受けて一発で合格。航空見習い士官となり、福生飛行場の審査部に転属された。

「あんな素敵な好男子はちょっと思いあたりませんね」

後年、良のことを悦子はたびたびふりかえった。

シカゴ育ちの良はスケートもホッケーもうまく、山王スケート場の常連だった。

「思い思われ人もいたようですよ。その方の家に遊びにいったら、良さんの写真が飾ってありましたから。彼女もスケート選手でした」

日本国内の屋内スケート場としては、山王ホテルがいちばん最後まで滑ることができた。やはり陸軍や皇室、家族の御用達だったためなのだろう。

大阪の朝日新聞の屋上リンクも灯火管制が敷かれる厳戒態勢の中、窓にびっしり黒いカーテンを張って、練習はつづけられた。

まもなく、梅花の英文科は敵国の言葉を学んでいるという理由で、解散された。

悦子は満州の首都、新京(吉林省長春市)の華北電信電話株式会社に就職する。

茨木家では反対の声もあったが、当の婚約者は徴兵されて満州にいた。

「私が就職したのは北支那電信電話局の総裁秘書室で、本社は北京にありました。そこで仕事しながら、冬はスケートを練習して、兵隊たちの慰問であちこちを巡業したの。

世話してくださったのは、総裁の賀屋興宣さん。広島県人の熱血漢で、山本五十六というえらい軍人さんと殴り合いのケンカしたことがあるそうです。でも、とても家族を大事にする方で、奥様もフィギュアスケート愛好家でした。

たくさんいる秘書の一人だから、仕事はそれほど大変ではありませんでした。賀屋さんはA級戦犯として東京裁判に呼ばれましたけど、ずっと戦争には反対していた人でしたから、あの裁判は本当にわけがわからなかった。

東京裁判では終身刑だったはずです。10年で出てきて、“巣鴨プリズンで健康的な食生活をしたせいで、長年の喘息が治った“なんて、ともかく元気な方でした。

 ただ死刑囚をたくさんご覧になったせいか、賀屋さん法務大臣になったときは、一人も死刑執行の書類にハンコを押さなかったそうです。」(稲田悦子談)

 同社は北京長安街の西方、西単に新社屋を建てたばかり。かなり広い敷地だ。立派な本社ビル以外に、電気通信学院があった。

 クラスは中国で暮らす日本人と日本の内地で募集した生徒と分けられ、授業は日本語だった。電話や通信関連の業務や技術をそこで育成し、就職する仕組みになっていた。

 悦子が勤務する秘書科は女子ばかりだった。寮ではお汁粉やカレー粉をもちよって料理したり、まさに「女の園」。女学校のつづきのような華やいだムードがあった。

 日本国内より食糧事情がよく、久しく食べれなかったチョコレートも売っていた。

電話交換手ともなれば、交代で夜勤があった。ほとんどが敷地内の女子寮で寝起きしていた。

新京のヤマトホテルでは満鉄映画社の甘粕雅彦理事長が家族と距離をおき、長期滞在していた。

甘粕といえば、関東大震災の混乱にまぎれて、無政府主義者大杉栄と妻と7歳の甥を憲兵が惨殺した首謀者として有名だ。

悦子は何度か会ったことがある。なのに、あまり強い印象を残していない。意外と小柄で、眼光は鋭く、神経質らしく、まわりの空気がぴりぴりしていた。悦子との直接の会話は少なく、秘書とのやりとりばかりだったと記憶している。

新京や大連のような都会だと、ヨーロッパの街並みそっくり。しかもセントラルヒーティングや水洗トイレが普及していて、食糧不足も関係がなかった。

 悦子は何度も慰問のアイスショー満州を巡業した。大連でも新京でも奉天でもハルビンでも、ヤマトホテルに泊まった。

与謝野晶子夫妻は招待旅行で奉天駅2階にあるヤマトホテルに泊まったとき、張作霖の乗った列車が爆破される音を聞いた。

 悦子たちが訪れたとき、すでに奉天ヤマトホテルは新しい場所に移されていた。両端の塔やマホガニー床の大ホールがヨーロッパの古城を思わせるほど、美しかった。

ヤマトホテル系列ならば、

「好きなだけ、食べて飲んでいい」

と言われ、喜んだ。

甘粕に限らず、ヤマトホテルでは現金ではなく、伝票にサインして「つけ」を利用する習慣がある。

もともと悦子は見かけによらず、大食漢だ。

 16歳のとき満州のレストランで串カツを45本食べた記録をつくったものだ。

 1943年、日本から4歳年下の艶子が合流した。まだ大手前高等女学校に在学していたにもかかわらず、東条英機内閣総理大臣から学校宛に皇軍慰問を依頼する手紙が届く。 

「これは非常に名誉なことですよ」 

と教員たちは大喜びして、全校生徒が万歳三唱をして送り出してくれた。  

楽団や歌手、7人の兵隊と共にトラックで約2か月間、中国各地を回って華やかなショーで兵隊たちを癒す趣向だ。

 ところが、北京郊外を移動中、突然「パーン、パーン、パーン」という銃声が鳴り響く。たちまち銃撃戦となり、艶子は悦子と共に荷台から飛び降りて、近くの大木に隠れた。

 2人は抱き合い、互いの体温を感じながら励まし合う。

「川が凍れば、そこでもやる。池が凍れば、草が見えかくれするリンクでやるわけです。コスチュームは薄い生地ですから、零下40度というところでは、全身、紫色になって、感覚なんてなくなってしまいますね。ああいうのは、自分のためというより、国のためという使命感がなくちゃ、できませんよね」(雑誌「マリークレール」より)

北京には満鉄子会社の華北交通があり、そこがスケート場を冬は経営し、ときどき映画女優李香蘭も来ていた。

満鉄はいずれは屋内スケート場も作る計画をもっていた。とりあえず冬は公園という公園、湖という湖、川という川がどこもかしこもスケート場になった。

フィギュアスケートだけではなく、スピードスケートやアイスホッケーで五輪を目標にして頑張っていた仲間がたくさんいた。

 小塚光彦もその一人だ。名古屋で学業を終えた。就職のために満州に渡り、満州国協和会の保安部警務司の所属カメラマンとして働きはじめた。

 大連の児玉源太郎にちなんで名付けられた児玉公園で、スケートの風景を撮影しているうちに自分も滑ってみたくなった。

 満州国には戸籍がなかった。日本からの移民の多くが日本国籍のままパスポートもいらなかった。

それともうひとつ、戦前までの五輪は出場枠の制度は今と違った。

自費出場枠があり、戦後オリンピックが再会されると海外に留学している日本人が、現地で出場する時代がつづいた。

 「小塚光彦さんはシングルアクセル(1回転半ジャンプ)を熱心に練習していらっしゃいました。私は目をつぶっても、シングルアクセルなら飛べましたが、遅くにスケートをはじめた方は、シングルアクセルがいちばんの壁なんですね。私は結婚のことでせかされ、終戦を待たず、内地(日本)に戻ってしまうのですが、満州終戦を迎えた方たちの苦労といったら・・・。ソ連からも中国からも攻められ、守ってくれる兵隊もいない。家族全員が生きて帰った方のほうが少なかったと思います。

 苦労して名古屋に帰りつき、何もかも焼けてしまったところで、11月には嗣彦さんが生まれ、オリンピック選手にまで育てあげたんですもの。孫の小塚崇彦くんもオリンピツクに行ったし、なかなかできることじゃありません。おじいさまもお父さまも、ずつとスケート連盟の仕事は手伝ってくださいましたね。」(稲田悦子談)

 ヨーロッパに近いせいか、満州にはパリやイタリアのブランド商品も店にはたくさん並んでいた。悦子は日本では非公開とされていた総天然色映画の「風と共に去りぬ」やディズニー映画の「ファンアジア」を満鉄本社で見せてもらった。

 日本人はたいてい生活水準が高く、家族で暮らす人は一戸建て。中国人のボーイやメイドを雇い、女子寮にしてもアパートにしても、冬はスチーム暖房で部屋を24時間温める仕組みになっていた。水道からは湯がでた。

 不思議なことに中国と戦争しているのに、市内電車に乗れば中国人と一緒になる。たくさんの中国人が日本人家庭や日本企業で働き、ダンスホールのような夜の社交場では、中国人やロシア人のダンサーがたくさん遊びに来ていた。

蒋介石の軍隊は北京から遠いところにいるからね」

と他人ごとのようだ。

中国大陸は広い。移動の距離がハンパな長さではなかった。馬でもソリでも車でも横断しようと思ったら、何日も地平線だけを見ながらの旅となる。

アメリカやイギリスの援助を受けた蒋介石政権。

ソ連の影響が強かった共産主義毛沢東政権。

それから日本の傀儡、皇帝溥儀の満州国

広い中国大陸で、この3つの勢力がそれぞれの思惑と正義のために戦っていた。

実際に武力衝突したのはほんの数回でしかなかった。にもかかわらず、おびたたしい人数が血を流した。その多くは名もない庶民だった。