稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第18章 五輪返上

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1937年、正式決定したはずの東京と札幌五輪の開催が、1938年には暗礁に乗り上げつつあった。

とくに札幌五輪のほうはまだ準備どころではなく、微調整に追われていた。

東京で着工していた施設も、鉄不足で中断を余儀なくされてしまった。

欧米の有力紙にしても日本にたいし、厳しい論調ばかりが目につく。

 

ベルリン五輪が真の国際平和と親善になんら貢献しなかつたように、きたるべき東京大会もオリンピック本来の目的達成に役だつことはないだろう。日本政府の行動が数百万人の中国人を死に導き、かつ自由な生存権を脅かしていることに、われわれは強い義憤を抱いている。」(ニューヨークタイムズ

 

「日本は国際的親善の増進というオリンピック本来の目的を無視して、理由なき戦争を行い、無力な大衆を爆撃している。かかるような国でオリンピックを開催すべきではない」(オレゴン・デイリー・ジャーナル)

 

早々から国際スケート連盟のサルコワ会長が、

「アジアは遠すぎる。選手たちを派遣するわけにはいかない。」

とボイコット宣言。スピードとフィギュアスケート競技は冬の五輪の華なのに、ヨーロッパの選手が出場拒否してしまったら、大変な事態となる。

 会長職11年目、60歳になったカール・エミール・ユリウス・ウルリッヒ・サルコワ伯爵は、コペンハーゲン生まれのスウェーデン人だ。あのサルコワ・ジャンプの考案者で、ロンドン五輪の金メダリスト、世界フィギュアスケート選手権では10回チャンピオンんになった。

 さらに、スウェーデンではサイクリング協会やボクシング協会でも代表を勤めている。スポーツ界にあたえる影響は並外れていた。

この時代、IOCといえば、実業家やビジネスマンではなく、あくまで貴族たちの親睦団体だった。

日本の軍人たちが武士道をそのまま受けついでいたように、欧米人たちの思想はイコール、騎士道という高貴な精神構造を継承していた。

たとえば、日本には、否、アジア全体において、当時フェンシングの選手がほとんどいなかった。陸軍には剣道の精鋭がそろっていたから、

東京オリンピックではフェンシングを種目からはずし、剣道を加えてもよろしいでしょうか」

嘉納治五郎が打診したところ、ラトゥール会長が、

「フェンシングは貴族のたしなみです。競技からはずすなんて、とんでもないことだ!」

と激怒してしまう一幕もあった。

柔道はなんとか本競技としてねじこんだ。ところが、剣道は外され、エキシビション競技になってしまう。軍人たちのプライドはへし折られ、不満は後々まで尾を引いた。

 

もともと軍人たちの間では、明治天皇の魂を宿す神宮外苑の施設を外国人に使わせることに反対する声が大きかった。

 

「欧州留学には私の両親も賛成してくれていました。ところが、世界情勢がとんどん変わっていくので、行くタイミングが問題になってしまったのです。

札幌オリンピックは決定したものの、国際スケート連盟サルコウ会長が”日本は遠すぎる。日本ならばオリンピックに、スピードとフィギュアのスケート選手を派遣できない“とボイコット宣言します。そこで、副島伯爵がスウェーデンまで行って、”旅費は日本側がかなり負担するから、心配しないでほしい“とサルコワ伯爵と直談判したのですが、なかなか承諾してもらえなかったようです。でも、オリンピックで日本に行きたい選手もたくさんいたみたいで、次の会長選挙でサルコウさんが辞任してしまったのです。これで助かった感じがしました。たぶんの日本のオリンピック関係者は皆、ほっとしたと思います。」(稲田悦子談)

 

サルコワ伯爵と話しあい、退陣を見届けた後、帰国した副島伯爵は、五輪開催の準備がほとんど進んでいないことを知る。

さっそく近衛文麿邸を訪問し、ハッパをかけるつもりで警告した。

 

「開催準備がこれ以上遅れると、東京オリンピックは取り消しとなり、札幌冬季オリンピックも困難になります」 

 

近衛は前年に会ったときとは、もはや別人であった。

それもそのはず、近衛は渋々ながらこの年の6月に総理大臣を引き受けたばかり。外務大臣に戻った広田と共に、戦争相手の蒋介石へ和平交渉を画策している最中だった。

亡き父、近衛篤麿の関係で、日本に留学経験がある蒋介石とは旧知の間柄だった。

8月2日。近衛は特使として宮崎龍介を神戸から上海に送り込もうと試みた。ところが、憲兵隊に逮捕される事件が起きている。

 

8月25日。陸軍省はすでに馬術で出場が決定していた現役将校たちの準備訓練中止を発表。7人の中にはバロン西こと、ロサンゼルス五輪の金メダリスト、西竹一も含まれていた。

 

8月30日。ふたたび副島伯爵は近衛を訪問した。

「戦争は戦争として、1940年のオリンピックはぜひ実現したい。そのためには予算がたりません。補助金を500万円増額してください。それが不可能なら、大会中止もやむおえないと思われます」

 

同じ頃、来栖大使はベルギー大使という立場で、ラトゥールIOC会長から大使館訪問を受けた。ラトゥール伯爵はあくまで個人的な忠告として、

 

東京オリンピックについては何かと苦心しているようだが、大会開催に反対する電報が約150通に達するなど、形勢はよくない。もし来年1月のオリンピック招請状発送のときまでに、日中戦争が終了していなければ、イギリス、アメリカ、スウェーデンはむろん、その他にも大会参加を拒否する国がでてくるのではと憂慮している。日本の友人として、個人的な意見をいわせてもらえば、むしろ日本側からオリンピックを辞退したほうが、不体裁な大会を見るよりは、日本の面目が保てるのではないだろうか」

 

来栖はさっそく本国にその内容を伝える。

副島伯爵は一転してオリンピック開催権を返上するために動きはじめた。

というのも、開催できないのならば、できるだけ早く他国に譲って、迷惑をかけないようにしたい。そうすることで、ラトゥール伯爵の信頼を不動のしよう。そして、未来につなげよう。

 

この頃、木戸幸一厚生大臣を訪ねてきた実業家がいた。

 

東急グループをつくり、毀誉褒貶を恐れぬ企業買収で「強盗慶太」と恐れられた後藤啓太・東横電鉄社長だ。明治神宮競技場だと、軍部も内務省もいろいろ口をはさんでくる。が、駒沢ゴルフ場跡地だったら後藤の所有だったから、

 

「ぜひ使ってほしい。」

 

オリンピックの財源や会場は、民間の協力を仰げば実現する旨を進言に来たわけだ。

 

ちなみに後藤の孫たちは西武鉄道堤康次郎の勧めもあり、そろいもそろって、フィギュアスケーターを習った。とくにアイスダンスでは日本の頂点を極めている。

 

とはいえ、陸軍と気持ちが近い木戸の腹はもうすでに決まりつつあった。

 

1938年7月15日、閣議であっさり、オリンピック返上が正式決定された。

 

「来るべき紀元2600年記念オリンピックは、内外の事情を考慮して、中止と決定した」

 

アジア初のオリンピック開催が、風のように消え去ってしまった。

 

ただし、この時点ではまだ1960年のオリンピックがなくなったわけではない。日本での開催はなくなっても、日本の選手を派遣する予定だった。

あくまで代替え案。

夏の五輪はヘルシンキ、冬の五輪は前回と同じドイツのガルミッシュ=パルテンキルシェンで、2大会連続開催されるプラン変更だ。

なので、悦子は留学は断念したものの、日本での練習をつづけていた。

 

「私は子供だから、何もわかりません、というふりをしていましたが、バカじゃないんですもの。この頃にはいろいろなことがわかるようになっていました。

陸軍にはスケート愛好者がたくさんいました。

応援してくださる方もいたし、皆さん、私の前では子供だと思い込んでいるから、いろいろな話をされているのです。

傲慢な発言が暴走したと言われる武藤章さんも、愛娘にスケートを教えるときは、どこにでもいるやさしいお父さんでした。ドイツに留学していたときは、スケートだけじゃなくて、ダンスも習っていたそうです。

外務省の方も皆さん、とても親切にしてくださいました。吉田茂さん、来栖三郎さん、広田弘毅さん、私の前では気をゆるむのか、皆さん、ぽろぽろと本音の言葉を口にされるのです。そこらへんの大人よりも、実際に起こっていることは耳にしていたような気がします。

でも、“みざる、いわざる、きかざる、でいるように“と永井先生から言われていましたから、しらんぷりしていました。学校に行くと同窓生が幼稚に思えてしまい、困りましたけど。」(稲田悦子談)

 

海軍も陸軍も予算を取り合い、夜は料亭通い。やれ「北進でドイツと共にソ連を叩く」とか、やれ「南進で物資を得る」とか、テンデバラバラのまま、世界戦争へまっしぐらと進む。

大蔵大臣だった賀屋興宣は、後に東京裁判でこう振り返る。

「軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」

この賀屋のツテで悦子は後に満州で就職する。