稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第19章 戦争の足音    

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東京開催の権利を早々に返上した見返りなのだろう。

まもなくラトゥール委員長が、公式見解を明らかにした。

次のヘルシンキ五輪では、大日本帝国とは別枠で満洲国からの出場選手も、受け入れるであろう、と。

 

これまで日本軍の傀儡政権として、決して認められなかった満州国。前回まで満州国からの選手は、あくまで日本代表として組み込まれていた。

 

ついに満州の五色の国旗が、国際社会で認められるのかもしれない。

 

これで軍の上層部がふたたび乗り気になった。

 

さて、ここで稲田悦子のスケート留学案が再浮上してくる。

連続全日本優勝という記録は更新中。

良家の淑女たちが通う梅花女学校で、主に英会話を学んでいた。

この女学校は梅本町と浪花教会の信徒が共同出資で創立させたため、両方の頭文字をとって梅花女学校と名付けられた。ゆえにキリスト教が基盤だが、ミッションスクールではない。

与謝野晶子のライバルだった歌人の山川登美子もここの卒業生である。

宝塚音楽学校を受験する生徒も多く、戦前から女子教育や芸術には理解を示す方針だった。

体育の授業やスケート倶楽部の活動では、悦子が模範演技したり、指導にあたっていた。 

 

すでに前例の「国民使節」、バイオリンの諏訪根自子が順調だった。

根自子は来栖家の娘たち、とくに次女のピアとは仲がよく、日本の「神風号」がブリュッセルを訪問したときも、一緒に花束を渡した。

来栖家のクリスマス休暇はほぼ毎年、スイスでスキーとスケートを楽しむ。

「根自子さんもたまにはスイスで遊びましょうよ」

ピアは誘ったものの、根自子はきっぱりと

「私はバイオリンの練習があります。それにケガが怖いからできません」

と断った。それほど真剣に音楽に打ち込んでいたのである。

もうじき予定の2年がたつ。根自子はまだ帰国したくなかった。ブリュッセル音楽院だけではなく、花のパリでもっともっと勉強してみたい。

 

当時のパリはピアノの原智恵子、画家の藤田嗣治岡本太郎、文学では朝吹登水子、俳優の早川雪洲らが遊学していた。

 

フランス大使の杉村陽太郎はパリ大使館勤務の傍ら、IOC委員としてパリっ子に柔道を教え、日本の武道を広めていた。旧知の来栖大使が根自子の希望を伝えたところ、杉村大使も協力を約束してくれた。

 

折しもバロン・オークラこと、大倉財閥大倉喜七郎男爵が、

「僕が資金援助しましょう」と名のりでて、根自子の新たなスポンサーになってくれた。

 大倉自身フルートをたしなみ、クラシック音楽愛好家だった。大倉商事はパリ支店があったので、そこでパリ移住の手続きを取ってもらう。

根自子はパリではバイオリンの権威、ボリス・カメンスキー宅に同居して、指導を受けることになった。

ところが、杉村大使は100キロこえる巨体がどんどんやせ細ってしまう。検査の結果、胃がんが見つかり、緊急帰国。1938年、外務省葬が執り行われた。

1940年5月10日、ナチスドイツがフランスに攻め込んだ。かつてないほど、人類最大規模の世界戦争がはじまろうとしていた。

フランス政府が逃げ出し、ドイツに占領されてしまった。ノルマンディ―上陸作戦の後、根自子はパリからベルリンに移り、ヒトラーびいきの大島浩武官に保護を受ける。

子供がいなかった大島夫妻は、実の娘のように大切にし、たびたびリサイタルを催した。

ゲッペルス宣伝大臣がこれに着目、根自子に名器ストラディヴァリウスを贈呈。そのことは日本の新聞にも大きく載った。

 

「あらまぁ、根自子はんはすばらしい活躍をされてますなぁ」

悦子の母は根自子の写真が載ると、その日は何度も新聞を開き、じっと考え込んだり、どこやら電話して話し込んだりしていた。

そんな激動の時代になっても、悦子の家族はまだ完全に海外留学をあきらめられなかった。

この冬から吉田茂一家のいるイギリスに留学させて、ガルミッシュ=パルテンキルシェン五輪に備えてはどうだろう。

今度こそ五輪で金メダルをとろう。悦子の頭の中はそのことでいっぱいだった。

1876年にはイギリスのロンドン郊外チェルシーには、人工氷の「グラシアリウム」が完成していた。ここは全体がアールデコ調の石でできた美しい建物で、製氷の技術は日進月歩、改良が繰り返されていた。

1900年代になるとヨーロッパやアメリカでは、アンモニアを冷媒させる方法の屋内スケートリンクが貴族たちの社交場として次々とオープンした。

ところが、ついに恐れていたことが起った。

東京から開催地を引き継いでいたヘルシンキが、オリンピックの大会放棄を正式に発表した。オリンピックは開催そのものが無期延期になってしまったのである。

もうスケート留学どころではない。練習こそ続けていたが、身が入らなくなってしまった。

この1940年という年には、「皇紀2600年」の大祝典があちこちで開催された。戦前の日本は神話の神武天皇の即位から数えて、「皇紀○○年」という独自の元号をもっていたのである。

11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。4日間、関連行事が繰り広げられて、奉祝の花電車に見物人が集まり、

「金鵄輝く日本の、はえある光身にうけて、今こそ祝えこの朝、紀元は2600年」

という祝歌は、誰でも歌えるほど繰り返し流れた。

祭典が終わると、一転して大政翼賛会のポスターがペタペタとそこら中に貼られた。

標語は「祝ひ終つた」「さあ働かう!」

すべてが配給制になになった。長い列にまじってお金を払い、ほんの少し食糧を支給してもらう。米、みそ、しょうゆ、塩、マッチ、砂糖、木炭・・・どんどんものがなくなっていく。

スケート場は「氷滑」と看板を改め、軍歌をバックミュージックに流して、かろうじて営業をつづけていた。

「ぜいたくは敵だ」

というスローガンがかかげられ、きれいな色の着物や洋装はもってのほか。カーキー色のあるいはモンペを着るべし。婦人雑誌に縫い方や型紙が掲載された。

タバコのゴールデンバッドが金鵄に、チェリーが桜に、歌手のディック・ミネなど、カタカナ言葉は片っ端から改名を迫られた。

まわりの子たちは、大人たちの熱狂をうのみにして、勝利に酔い、はしゃいでいる。なのに、悦子は他の人たちのように、提灯行列で喜ぶ気にもなれなかった。

フィギュアスケートとオリンピックを通して、広い世界を知ってしまったせいだろうか。気持ちが衝突してしまい、ショートしっぱなしだった。

1日24時間、オリンピックのことだけを考えて、生きてきた。

突然なんの目標も持てなくなってしまった今、何に喜び、何に情熱をぶつけたらいいのか。

 ベルギーからドイツの大使館に移った全権大使の来栖三郎は、、本国からいきなり日独伊三国同盟に調印する役割を命ぜられた。辞意を表明すると、後任の大使には大島浩武官が就任した。

吉田茂もイギリス大使を辞任して、帰国。

帰国後、吉田和子は神田の天守教会で結婚式を行うことになり、悦子にも招待状がきた。

新郎は麻生多賀吉。九州の炭鉱王の息子で、長者番付の上位にいる資産家だ。

和子とはロンドンで日英協会の晩餐会でさりげなく引き合わされていた。

白のサテンのウェディングドレスが日の光を浴びて、きらきらと光沢をはなつ。何より和子の顔が輝いていて、お気に入りの旦那様なのだと感じた。花嫁の父は不機嫌で、寂しかったらしく、次のような言葉をおくった。

「ともかくおまえはよけいなことを言うから、お嫁にいったら一年間はつつしんで、ものを言わんように。それでがまんできなかったら、さっさと帰っておいで」

それまで和子は一度も九州へ行ったことはなかった。中国で生まれ、フランスやイギリスを転々として育ったので、新しい土地にもさしあたって抵抗はない。

飯塚は炭鉱の町と聞いていた。イギリスの炭鉱みたいに茶色っぽい山ばかりの光景を予想していたところ、山は松に覆われて、きれいな田んぼが広がっていた。

高い建物がひとつもないので、遠くからぽつんと麻生家が見えて、建坪600坪ある広い家だった。

二度目のお正月には長男の太郎が生まれていて、上座が用意された。

「これが九州のしきたりなのね」

と和子は感心した。板前や家事見習いがたくさんいたので、料理を覚える機会はついになかった。

和子は多賀吉といっしょに子どもを連れ、ときどき電車で30時間あまりかけて東京に出た。

というのも、母の雪子が乳がんで聖路加病院に入院していた。来栖アリスもアリス・グル―大使夫人も、ほぼ毎日、特製のテールスープを差し入れしてくれた。

麻生家は永田町にも家をもっていたが、吉田茂が、

「おまえのところは子供が生まれてくるのだし、庭のある家のほうがいいだろうから、渋谷に住むといい」

と言って、交換していた。

雪子夫人はどんどん弱っていく。死の間際まで、日本がアメリカと戦争になるのではないか、と心配しつづけた。

葬儀が終わってまもなく、夜中に来栖大使は外務省に呼び出され、東郷外務大臣から、

「ワシントンで日米交渉をつづけている野村吉三郎大使を助けに行ってほしい」

と懇願された。

来栖大使は田舎紳士に変装して、ひそかに海軍飛行場から渡米することになった。

 

「和子さんはお茶やお華や日本舞踏はひととおり習っていらっしゃったけれど、やはり外国での暮らしが長かったから、日本語よりも英語が得意。びっくりする言動が多かったのです。でも、だんなさんはいちいちそれを面白がる人で、夫婦ケンカをしたことがなく、“生まれ変わっても、もう一度、和子と結婚したい”とおっしゃっていたそうです。

麻生家ではお父さんが早く亡くなり、女手で育てられたから、麻生多賀吉さんは吉田茂さんのことを実の父親みたいに慕っていました。

太郎ちゃんはやんちゃでね。たくさん面白い話があるけれど、政治家になるとは思わなかったわ。戦争中、大磯の吉田邸には陸軍や憲兵隊からのスパイが入り込んでね。女中とか、書生とか、いろいろ化けているから、もちろん家族は何も知らなくて。息子さんたちは戦争で取られていて、男手がないでしょう。大磯の家は旧式で、お風呂も井戸水を何往復もして運ばなくてはいけなかったし、汲み取り式のトイレもすぐに溢れてしまい、書生さんは仕事がたくさんあって、毎日くたくたに疲れてしまったんですって。なのに、まだ小さい太郎くんが朝早くから、その書生さんの部屋に入り、布団の上でピョンピョン飛んで“便所をくんでくれ~!”とやったそうよ。ずっと後になって、その書生もスパイだったことがわかるんだけど、家族が飢えないように畑まで作ってくれた人でね。和子さんは“悪いことしたわ”と言っていたし、吉田さんは仕事の世話もしてあげたそうよ。」(稲田悦子談)