稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第17章 スケート留学の夢

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四頭馬車に乗った女神ヴィクトリア像、彼女は昔も今も、勝利の象徴なのだ。ブランデンブルク門の上から、美しく微笑みながら歴史を見つめてきた。

かつてナポレオン・ボナパルトフランス軍に、このベルリンは占領された。この女神は戦利品としてパリに持ちさられ、また戦争でパリからベルリンに取り戻された。このとき彼女がもつ杖には、戦勝のシンボルとして鉄十字の紋章が刻まれた。

古代ギリシア風の門の周辺には、古典的で壮麗な建物ばかりが並ぶ。絵画のように美しい。そこには各国の大使館があり、由緒あるホテル・アドロンもあった。

1936年7月30日、ベルリン五輪開幕の前々日。このホテル・アドロンの「鏡の間」でIOC総会が開催された。

日本からはミスター・カノーこと、76歳の嘉納と66歳の副島伯爵がモーニング姿で「鏡の間」へ乗り込む。控えの間には来栖、吉田、杉村たち欧州の外交官たちもオブザーバーとして結集した。

すでに外務省の名物男、杉村大使がムッソリーニ首相と話し合い、まずイタリアが候補から撤退。フィンランドヘルシンキと東京の一騎打ちとなる見通しだ。

新聞記者たちに東京開催の可能性について聞かれると

「まあ、5分5分より、ちょっとよいぐらいかな」と嘉納。

「まったく予想がつきません。イタリアが日本に入れてくれそうだ、ということぐらいです」と副島。

 あくまで会議形式、話し合いの中で、立候補国はメリットや具体的な予算などをアピールしていく。

 透明な火花が至るところで飛び散っていた。

会議の半ば、中国代表のIOC委員、王正廷が挙手して、発言を求めた。

会場内に緊張の稲妻が走った。

「公人の立場にたてば、私はアジア人の一人である。歴史的に光栄あるオリンピックが史上はじめてアジアで行われることを考えると、私は東京を支持せざる得ない」

 嘉納も副島もそれぞれ自分の耳を疑った。ちりちりと目がしらが熱くなる。

次に挙手したのはアメリカのIOC委員、ガーランドであった。

「皆様のおかげでロサンゼルス五輪を成功のうちに終わらせていただいた。日本は世界のどの国に比べても、もっとも熱心な協力者であった。私はアメリカ人の一人として、私は信念をもって東京開催を支持する」

 

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翌日、同じ鏡の間で、投票が行われた。

嘉納や副島の眼前でさっとペンを立て、「TOKYO」と書いて、握手を求める者もいる。誰も彼もが「がんばれよ」と激励してくれているようだ。もしかすると、勝てるかもしれない。感謝と感動で胸が破裂しそうだ。

ラトゥール委員長が結果をよみあげた。

「東京が36票、ヘルシンキが27票!よって次回の開催地は東京に決定いたしました」

もう言葉にならない。嘉納は拳をにぎりしめ、天を仰いだ。その目尻には光るものがあった。

ラトゥール委員長が終了の挨拶を終える。観音扉を開けると、廊下で待っていた新聞記者たちが叫ぶ。

「どこにきまったんですか!」

 ラトゥール委員長はおだやかな微笑みを浮かべながら、

TOKYO!

 日本の記者は声にならない声をあげ、いっせいに廊下を走りはじめた。電信用の部屋に飛び込み、第一報を伝える。

 新聞各紙は最大級の見出しで特報した。

「勝った!日本晴れだ、明治神宮に御礼参拝」(東京朝日新聞

「極東に翻る初の五輪旗」(東京日日新聞

「おお今ぞオリムピックは我等の手に!」(報知新聞)

 日本中が喜びに沸いた。戦に買ったときのような提灯行列が、3日間、道路という道路を埋め尽くす。

オリンピックがどういう代物なのか、わからない人のほうが多い。報知新聞では急きょ、巨人軍の沢村栄治の記者会見が催された。ところが、沢村とて何をどう答えたらいいのか、よくわからない。

 首相の広田は次のような談話を発表した。

「これは、わが国関係者の努力もあるだろうが、世界各国のわが国に対する正しい理解の結果と解され、一層の喜びである」

 まさに広田にとって、人生最大の喜びの瞬間だったのではないだろうか。

 オリンピックヘアと名づけられた髪型や五輪マークの洋服が銀座や浅草にあふれた。宝少女歌劇ではさっそく「起てよ若人」という五輪をめざすショーを演じた。

東京開催が決まった翌日、同じベルリンで夏季オリンピックがはじまった。

 悦子たちが参加した6か月前の冬季オリンピックは、規模からいうと、いわば実験台みたいなもの。ヒトラーナチスドイツは、この運営に国家の威信をかけていた。

 聖火リレーが行われたのも、このベルリン五輪が初。

メイン会場にそびえたつ通称「ヒトラー台」は、冬のときよりさらに豪華なつくりに仕立てられた。ぶらさがった鐘をつくと、リーンゴーンリーンゴーンという音をだす。

まるで神の祝典のような錯覚を引き起こす。

深い地獄の底からの音色。

新聞各社のスクープ合戦は4年前のロサンゼルス五輪からヒートアップしていた。

この年からはじめて技術的に写真電送が可能になり、新聞記者たちは無線電信や無線電話で原稿をベルリンから日本に送った。

 

「フランス人がナチス式の挨拶をしたとき、涙ぐんだ。平和が感じられたからだ。」(作家・武者小路実篤

ナチス王国でのオリンピアードでは、全てが劇に始まり、劇に終わる。四十年の生涯において最も生き甲斐のあるものに感じた。」(詩人・西條八十『1930年代論』菊池昌典)より)

「日本の武士道とナチスの精神は似通ったものがあると考へる。この国民性の相似とヒトラー総統との友情によって、日独協定は一段の光彩をあたへ両国の関係は今後益々緊密化するものと確信する。(鳩山一郎元文部大臣)

ラジオでの実況中継がはじめて40カ国、41社、105人のアナウンサーによって行われた。実に世界で3億人以上がベルリン五輪ナチスドイツのプロパガンダを視聴したという計算になる。

 ラジオ中継したNHKアナウンサーの川西三省は、中継予定開始時間が夜中の12時をすぎたため、

「みなさま、どうかスイッチを切らないでください」

 という言葉からはじまった。

ロサンゼルス五輪では0.1秒差で銀メダルになった水泳の前畑秀子の出番だ。和歌山県豆腐屋に生まれた秀子は、17歳のとき父も母もつづけて脳溢血で失っていた。ロサンゼルス五輪で一度は引退を決意したものの、学校長や東京市長の支援で1日2万メートルを泳ぐ特訓を重ねてきた。

 スタートする時点まで、川西アナウンサーは冷静に秀子の様子を描写していたのに、150メートルを過ぎたあたりから、絶叫と応援になってしまう。平泳ぎでドイツ代表のマルタ・ゲネンゲルと大接戦を展開したのである。

前畑がんばれ!」を24回、「勝った!」を14回も連呼。

日本女子がはじめてオリンピックで金メダルに輝き、歴史に刻まれた名シーンだ。

日の丸があがり、君が代が流れている間、表彰台で前畑はそのまま深々と一礼。2位のゲネンゲルと大観衆は右手を斜め前にあげ、ずっと「ハイル・ヒトラー」の体制をとりつづけた。

ヒトラーの側近、ゲッペルス宣伝大臣が意図するプラパガンダ、宣伝を宣伝と意識させない宣伝がここで花開き、実を結んだのである。

悦子も前畑秀子の金メダルに歓喜した。

「自分もやるからには金メダルをめざそう。次はきっときっと金メダルをとってみせる」

およそ半年前に体験した国際試合。ヨーロッパ選手権、オリンピック、パリの世界選手権で、ソニア・ヘニーと同じ競技会で滑った悦子は、金メダルを取ることのすばらしさを目の当たりにしていた。

 

「オリンピックは参加する意義があるなんて、ウソよ、ウソ。オリンピックだってどんな試合だって、出場するからには勝たなくてはだめ。1日に正味7-8時間は滑っていましたよ。好きでなきゃあ、とてもやれませんわ。合計すると地球を何回まわったかわかりません。前畑秀子さんの金メダルはとっても感動しました。母も言ったものです。“悦子、次のオリンピックは金をとりましょう”って。外務省の方たちもとても協力的で、ベルギーかドイツでスケート留学する話が進んでいたんです。」(稲田悦子談)

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すでにこの年の1月23日、天才美少女バイオリニストして名高い諏訪根自子が、日本郵船の豪華客船、鹿島丸でベルギーへ向けて出発していた。16歳の一人旅。

もっとも一等寝台が用意されて、専任の女性世話係りが付いた。マルセイユから先は現地の大使館関係者が出迎える手はずだ。

根自子は鼻がすっととおって、ほりが深い、つぶらな目をした美少女だ。指揮者の近衛秀麿のバックアップもあった。演奏会ではブロマイドも売られて、多くの男子学生が胸をときめかせ、アイドルスター並の人気である。

 稲田悦子と共に、時代を代表する「天才少女」として、新聞や雑誌では何度も記事になり、会えば本人たちはもちろん親どうし、挨拶して雑談するぐらいの間柄だ。アイスショーでコラボレーションしたこともある。

 ちまたではフィラデルフィア交響楽団が出演した「オーケストラの少女」や「スミス都へ行く」といったアメリカ映画が大流行し、ロングランをつづけていた。

「…の少女」という言い回しがはやった。

「豆のえっちゃん」というニックネームで親しまれていた悦子は「スケートの少女」であり、諏訪根自子は「バイオリンの少女」だった。

根自子の母親は4人の子供を連れて離婚したばかりだ。

ことのはじまりは近所の病院で、院長が看護婦と駆け落ち。残された院長夫人と根自子の父親とが深い仲になる。結果として、2組とも離婚が成立した。

世間の同情と注目がティーンエイジャーの根自子に集まった。

そんなとき、ベルギーへ交換留学生として渡航する話が持ち上がる。

ベルギーの駐日大使バッソンピエールが彼女に注目し、ベルギーの国王レオポルド3世に推薦したことがきっかけだ。国王自身もバイオリン奏者だったので、とんとん拍子に進んだ。広田総理大臣や外務省文化事業部はもちろんのこと、幅広いパトロンとして知られていた徳川義親侯爵が、2年間の留学費用を約束してくれた。

 根自子はベルギーでは寄宿舎で寝起きし、ブリュッセル音楽院に通う。宮廷音楽家のエミール・ショーモンにも師事した。

約半年遅れてベルギー新任大使の来栖一家が到着すると、週末は大使館ですごすようになった。次女の来栖ピアとは特に親しくなり、アリス夫人の手料理を楽しみ、長女の来栖ジェイやピアと屋台のワッフルを食べに行く。

ただし、乗馬やテニスに誘われても、

「私はヴァイオリニストだから手が大事なんです」

 と必ず断り、毎日4,5時間は必ず自主練習を自分に課していた。

 そんな様子が日本に伝わってきたので、悦子の両親も、

「むこうで外務省の来栖一家、あるいは吉田一家に庇護してもらえるのなら・・・」

 と留学にはかなり乗り気になっていた。悦子のほうが根自子より3歳年少だ。

明治政府はすでに女子教育のために6歳だった津田梅子をアメリカ留学に派遣。前例のないことではなかった。

つまり、悦子が「国民使節」としてヨーロッパ留学するのは、決して夢物語ではないプランだったのである。

 

「ただ一つ、問題になったのは、当時のヨーロッパは意外と通年の屋内スケート場の数が少なかったんですよ。ロンドンの1つ、ドイツに1つ、カナダやアメリカにはもっとあったそうですが、スケートのよい先生がいるかどうか。今みたいに情報がない時代でしたから、大使館の方たちも困ってしまったみたい。

日本にいたら、1つのスケート場がお休みでも、別なスケート場で、1年中滑ることができました。ヨーロッパでは屋外スケート場ならば、どの町にも1つはあって、スキー同様、愛好家が多かったようです。皆さん、夏の間は他のスポーツをして、身体を鍛えているんですって。ソニア・ヘニーノルウェーで練習しているホームリンクも調べていただいたら、屋外リンクで冬しか滑ることができないのです。彼女は氷がないシーズンはバレリーナのアンナ・パブロワを育てた先生について、バレエを習っていたそうです。

根自子さんの場合はバイオリンはどこででも練習できました。ベルギーという国は王様ご自身もバイオリンを演奏されるぐらい、とてもクラシック音楽が盛んな国柄だと聞いています。スケート留学先がなかなか決まらず、困っているうちに、どんどん戦争が広がってしまったのです」(稲田悦子談)

 

正式に日本での五輪開催が決定したものの、

「冬季五輪だけでも、やりたい」

ヘルシンキはなかなか引き下がらなかった。

当時の五輪憲章では冬季オリンピックの開催地は、夏の五輪と同じ年、同じ国に優先権があった。

疑問視する声はIOC関係者の間では根強く、

「本当に日本でオリンピックを開催することなんてできるのか?」

「あんな極東まで選手が行くのだろうか?」

 などという声があり、冬の五輪開催はなかなか正式には決まらなかった。

 東京開催が決定した翌年、IOC(國際オリンピック実行委員会)は、6月7日から11日までワルシャワの「ホテル・ヨーロッパ」で会合をもつ。

そこで、ようやく1940年の札幌オリンピックが正式決定した。

 そのニュースを聞いた悦子たちが大喜びしたのは言うまでもない

 ここまで尽力してきた副島伯爵は、やっと一息つくことができた。スウェーデンによったから、アメリカ経由の船旅で帰国の途につく。

ところが、シアトルについて新聞を広げると、さっと身体中の血が冷たくなった。英語の記事は次のような内容だった。

「中国マルコポーロ橋に於いて、日中は戦闘状態に入った。戦火はなお、広がる予定である」

 いわゆる盧溝橋事件である。開戦通告がないまま、日中戦争がはじまってしまった。