稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第16章 東京オリンピック招へい

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226事件青年将校たちが最後に幕をおろした舞台。それが山王ホテルと地下のスケート場だった。

兵たちは家具を積みあげてバリケードを作っていた。ドアを固定するためにノブに針金を巻きつけてあった。中隊長は憤りにまかせて、日本庭園の木を日本刀で1本なぎ倒した。

とはいうものの、ホテルとしての機能には大きな破損はなかった。

シーツや家具を買い替え、一部は壁を塗り替え、1週間後には営業を再開した。

東郷いせたちも元どおりスケート倶楽部の練習に通うようになった。

選挙を終えたばかりだったが、生き残った岡田首相は責任問題で総辞職。

まず元老・西園寺公望近衛文麿を推した。ところが、近衛は健康上の理由で固くなに断る。恐れ多くも大命を辞退するとは・・・。世論はざわめいた、

近衛の意志は固く、「爵位を返上したい」とまで言い出す。

西園寺は腹心の牧野伸顕と共に思案にくれた。そして、外務大臣広田弘毅の抜擢しよう、と思いたつ。さっそく近衛と吉田茂に説得を頼んだ。

渋々ながら広田は承諾した。火の中の栗を拾うようなものだ。

意外な人選だったので、「ヒロッタ内閣」とマスコミは揶揄したほどだ。

3人の警官と身代わりの秘書官が死亡した首相官邸は、いたるところが銃弾痕と血で染まり、簡単には片付かない。宮内庁に場所の提供を頼んだところ、

「とんでもない」

と断られてしまった。仕方なく、広田は外務省の一室で吉田たちと共に組閣について話し合う。ドアの外には報道陣が待機している。

その最中、どかどかと陸軍の寺内寿明や武藤章が押しかけてきた。腰にサーベルを下げ、がちゃがちゃと音をさせながら、

「牧野の娘婿(吉田茂)なら、陸軍からは大臣をださんぞ」

と新首相を半ば恫喝した。

こうして、日本は226事件をきっかけに、軍事ファシズム国と化していった。

世界戦争への1歩ずつ駒を進めていく。

この年、唯一といってもいいほど、明るいニュース、それが東京オリンピックの招聘であった。

福岡県出身、石屋の父親をもつ広田は勉強もできたが、運動が好きで、柔道の黒帯をもっていた。

オランダ駐在大使だったとき、アムステルダム五輪が開催された。大使館では選手団を招いて、宴を催す。広田は彼らと一緒に「さどおけさ」を舞ったものだ。

本番では人見絹枝らが大活躍。普段あまり感情を外にださない広田が声をからして応援する。

陸上の三段跳びで、日本代表の織田幹雄が最高記録に挑む。最後に飛んだ選手がファウルか成功かで、審議が数分に及ぶ。人々は息を飲み、会場はしーんと静寂に包まれた。

「ファウル!」

その瞬間、日本人初の金メダルが決定したのだ。広田ははじけたように立ち上がり、

「ば、ばんざーい!ばんざーい!ばんざーい!」

という声が観客席に木霊した。後年、巣鴨の死刑台に上がる際、万歳三唱を断った広田が、である。

このときメインポール用の日章旗が用意されていなかった。急きょ応援団から借りてきた「日の丸」は他の国よりサイズがひとまわり大きい。

ゆっくり、ゆっくり、赤い日の丸があがっていく。

広田は頬をつたう涙をぬぐおうはせず、直立不動で君が代を熱唱した。

「これは素晴らしいイベントではないか。選手たちは一人で外交官100人分の仕事をしてくれた」

オリンピックの思いで話になると、頬が上気して、たちまち雄弁になってしまう。

もちろんそれだけではなかった。

国際連合から脱退した今、日本は世界から孤立しつつある。国際社会と平和へのパイプを断ち切らないためにも、オリンピックを東京に呼びたい。

それが広田の悲願でもある。

ところが、肝心のIOC(オリンピック実行委員会)委員長のアンリ・ドバイエ・ラトゥール伯爵が、当初はアジア初の開催に気のり薄なのだ。

折も折、2.26事件が起こったのは、IOCの視察旅行直前のことだ。

関係者は「もうラトゥールは日本には来ないと言い始めるかも・・・」と不安をつのらせた。

ともかく、予定どおり3月20日に横浜港にIOC一行が到着。

数百人の小学生がベルギーと日の丸の小旗をふって出迎えていた。

それを見ると、ラトゥール伯爵は「おっ」という顔をして、たちまち上機嫌になった。

この年は早めに桜が咲いた。開催予定地の明治神宮外苑は花の美しさと香しさで満たされていた。ラトゥール伯爵は感嘆した。

「ごたごたした装飾が一切ないのに、なんとまあ、美しいテンプル(寺院)なのだ。日本人はどういう感性で、こんなに美しい建物を作ることができるのだろう。」

天皇陛下の弟宮、高松宮家から晩餐会の招待を受けた。

さらに3月27日には宮内庁から連絡があり、

「突然で驚かれるかもしれませんが、天皇陛下がじきじきにラトゥール伯爵にお目にかかりたいという御言葉がありました」

ベルギー人のラトゥール伯爵にとって、文字どおり天皇は王族そのものを指す。もちろん承諾した。

「それではIOC総会で再会しましょう」

と笑顔で帰国していった。

 

1936年4月。広田首相は来栖三郎をベルギー、腹心の吉田茂はイギリスへの転勤を命じた。フランスには杉村、イタリアには石射猪太郎がいる。親米英派の吉田は彼らと密に連絡を取り合いながら、

「一日も早く日中戦争終結に導こう」

と誓い合う。

時節がめまぐるしい。悦子たち選手団が船で凱旋帰国したのも、ちょうどこの頃だった。

もう雪どころか、桜も散っていた。。

横浜港には吉田和子や来栖一家たち外務省関係者がたくさん迎えにきてくれた。新聞記者も大勢いて、尾崎秀実の姿もあった。

悦子親子もその晩は大阪に帰らず、山王ホテルに泊まった。翌日は山王スケート場で帰国凱旋公演。ここでも抱えきれないほど花束を手にした。

まだ戒厳令は敷かれている。とはいえ、クーデターの影は見当たらなかった。何もなかったように、皇居と永田町周辺は束の間の平和を取り戻していた。

目標は4年後のオリンピック!

「やるからには金メダルをめざさなくては!」

という母親の言葉に悦子は大きくうなづいた。

それまで悦子は大阪の公立管南小学校に在籍。午前中1-2時間だけ授業を受けて、早退させてもらう。午前2時間、午後5時間は練習する日々を送っていた。

当時の義務教育は6年。小学校を卒業したら、スケートの練習を理解してくれる学校を選ぶつもりだった。悦子は外国語を学びたいと思った。

幸い梅花が名のりあげてくれた。キリスト教メソジスト派の女学院である。

1位のソニアをはじめ、ほとんどの上位選手がパリの世界選手権を最後に、引退を発表していた。

同年、ソニアは映画産業の本場アメリカのハリウッドを生活の拠点も移す。映画製作会社の20世紀フォックスと契約を結ぶ。

彼女の豪邸でのパーティーは趣向を凝らしたもので、次々と話題を提供しつづけた。宝石をかたっぱしから買占め、豪華絢爛な生活をおくった。

本物のゾウの背中にのって登場したり、「世界でもっとも裕福な女性の一人」として雑誌の表紙を飾り、ディズニー映画でドナルド・ダックと共演した。

浮名を流した相手は、大富豪とばかり。後に大リーグ、ニューヨーク・ヤンキースのオーナーになるダン・トッピングと最初の結婚。2度目はロングアイランドガーディナー島の所有者だったウィンスロップ・ガーディナー。3度目はノルウェーの海運業者ニルス・オンスター。超金持ちばかりだ。

 

「今みたいにテレビ番組がなかったから、映画はどんどん作られて、日本にもどんどん入ってきました。アメリカと戦争になったとき、“ディズニー映画がみれなくなる!”とががっかりした人は多かったもの。ソニア・ヘニーさんはヨーロッパ選手権、オリンピック、パリ世界選手権でご一緒させていただいたので、スピーディーなスケーティングの印象のほうが強いのです。ともかくいつ見ても、自信と落ちつきがあって、失敗がないんですの。にこにこと穏やかに滑られるんですね。2位だったイギリスのセシリア・カレッジさんも上手で、フリーはとても“凄み”がありました。2回転ジャンプも女子でははじめて入れていましたし、スピンの種類も豊富でソニヤさんのより難しい要素をこなしていたように思われます。でも、全体を見るとやはり失敗がないのはソニヤさんで、これは他の誰にもまねできない世界を作っていましたね。」(稲田悦子談)

 

 

1937年の5月21日、横浜港。

吉田茂がイギリス大使として雪子夫人と次女の和子たちと共に旅だつ。吉田家では長女はすでに嫁ぎ、長男と次男はイギリスで大学に通っていた。

同じ日、来栖一家もベルギー大使として、一便違いの船で出発した。

ゆえに送迎は相当な数が集まった。

2.26事件で難を逃れた牧野伸顕の姿も見せた。

日本にまた一人で残ることになった来栖良も見送りに来た。良と一緒にいるのが駐日大使のジョセフ・グル―夫妻だ。グルー夫妻は「わが息子」と呼び、後見人をかってでてくれた。

和子は日本との別れがつらいというより、うきうきした様子で、

悦ちゃん、頑張りなさいね。」

と励ましてくれた。

「私もまた外国に行きたいわ」

「オリンピックの前にヨーロッパにスケート留学できるとよいですわね。あちらから、手紙を書きますね」

「はい、私も書きます」

和子の母、吉田雪子夫人は牧野伸顕の娘、つまり大久保利通の孫になるから海外暮らしが長い。曾祖父の代から和子まで4代に渡って、英語圏で教育を受けたことになる。

なので、雪子夫人も和子もイギリスの田舎暮らしを深く愛していた。

およそ1ヶ月前、悦子たち冬季オリンピック選手団が帰国。

今度は悦子は見送る側になってしまった。

あのときも途中、一緒に二条橋でおりて、皇居に向かって参拝したものだ。

悦子の頭はいつでもスケートでいっぱいだった。

ドイツとパリでは見聞きしてきた技をノートにメモしてあった。

みようみまねで、2回転ジャンプを練習してみると、すぐに飛べるようになった。

悦子にはまだ十分の時間が残されている。4年後の札幌五輪のときは16歳。ダブルジャンプの種類もスピンのバリエーションももっともっと増やしていけるはずだ。私はスケーティングの天才というよりも、目で見てまねるのがとても上手だったんですよ」 

と後に謙遜したように、目をカメラにして、動きを脳に焼き付けてしまうと、ほんの数日の練習で自分のものにしてしまう。そこが悦子の強みだった。

 

「自分ののぞむべき大会への意気込みと体のコンディションがマツチした場合は、当然より記録が生まれるものですが、普通トレーニングは、選定種目発表のある大会1ヶ月前あたりから始めれば、コンデションの上昇期が大会期日前後に大たい持つて行くことが出来ます。とにかく、期日まぎわになつて調子が出ず、調整に時間的余裕がないようでは困りものです。日ごろの調子が出し切れる状態というのが、裁量のコンデションといえるものでしょう。

また、大会に臨む日は、三十分前に万全準備完了しておくように心掛けています。健康法は、私は喉が弱いので喉を傷めぬよう常々注意していますが、その方、よく睡眠をとると言うことでしょうか・・・・」(1954年雑誌「円」インタビューより)