稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第15章 226事件とフィギュアスケート

f:id:mmcompany:20181220192314j:plain
パリの世界選手権でも悦子は総合10位。この後は、ドイツのミュンヘンでもアイスショーに出演する予定だ。終わると帰国である。待ち遠しいような気もするし、西欧での生活も捨てがたい気がした。

ベルリンにもどって練習をつづけていると、恐るべきニュースが飛び込んできた。

日本で武力行使による革命が起った、とドイツの新聞が報じたのである。

いわゆる226事件の勃発だった。

 

「あの山王ホテルも華麗な舞台から、一転して2.26事件では反乱軍の本部になってね。あのとき、私たちはちょうどオリンピックに行っていて、パリで知ったんですよ。大使館の人からニュースを聞いたときも、まっさきに浮かんだのは“あら、スケート場にも兵隊さんたちがみんな立って籠ったのかしら”ということだったの。そして、私はなぜかその朝、レモンスカッシュを飲んでいた。それだけはもうすごく克明に覚えているの(笑)。ところが、時間がたつにしたがって不安になってきてね。“もう私たち、このまま日本に帰れないんじゃないか”って」(1986年「婦人公論」対談より)

 

2月26日の前日。天皇陛下は青山御所でスキーを楽しまれた。午後からは斎藤実総理大臣と会談をもつ。

その晩、斉藤大臣は米国大使館で、映画とディナーを楽しむ。トーキー映画「おてんば娘のマリエッタ」と堪能した。

一緒に招待された鈴木貫太郎夫妻と共に夜11時半、グル―大使夫妻に玄関で見送られ、車で帰宅した。

時計が12時を回った。2月26日未明。

昭和維新を呼号した陸軍の青年将校たちが、下士官兵約千五百人を率いて、クーデターを決行した。

まず一部が湯河原へ牧野伸顕討伐にタクシーで出発。

残りの大多数が、それぞれの目的地へ向かった。

斎藤実夫妻は自宅で、銃弾を47か所も浴びて、絶命した。

大蔵大臣の高橋是清は弾丸で即死した後、さらに刀で切り刻まれた。

 

少し離れた荻窪には陸軍教育総監渡辺錠太郎の私邸がある。ここへは行進ではなく、トラックで兵ろ武器が運ばれた。

渡邊はドイツやオランダの駐在が長く、読書家だった。フィギュアスケートも達者で、51歳のとき授かった末娘・和子を山王スケート場にも連れてきたばかりだ。

青年将校たちは何かたくらんでいるらしいが、私もむざむざと殺られたりはせんよ」

とうそぶくほど渡辺は射撃の名手でもあった。

9歳の末娘を机の影に隠し、渡辺は布団をのけて、拳銃で応戦。寝室で至近距離からの銃撃戦となる。廊下に据えられた機関銃にはかなわず、肉と血が飛び散り、絶命した。

岡田啓介首相は女中部屋に逃れて助かった。ここでも銃撃戦となり、秘書官と4人の警官が絶命した。

 

麻布歩兵第三連隊の安藤輝三中尉は二個小隊を率いて、約30分の行進で鈴木侍従長の官舎に到着。ぎらりと剣をぬいて、

「敵は目前にあり」

と呼号した。機関銃を据えて外まわりを固め、表と裏から侵入した兵たちは2階で鈴木侍従長を発見し、たちまち4発撃った。その音で安藤中尉も上にあがり、床にきりっと正座した鈴木たか夫人に、

「閣下の御流しになったこの血が昭和維新尊い原動力となり、新しい日本の建設の礎になります」

と説明したところ、

「思想的に鈴木と相違でもあり、この手段になったのですか、鈴木が親しく陛下にお伝え奉っていたのをみても、その考えに間違えはなかったものと思いますが」

たか夫人はかつて昭和天皇や弟の秩父宮たちが幼少の頃、鈴木と共に教育係を勤めていた。

「主人は致命傷でもう助かりません。武士の情けです。せめて遺体だけでもきれいなままで残してください」

とたかは鋭い目で哀願し、安藤はそれに押され、とどめの一発を逃れた。

もともと安藤は秩父宮とは懇意で、スキーとスケートの名手でもあった。山王ホテルのスケート場で何度も滑ったことがある。

26日の夜、青年将校たちが山王ホテルに飛び込み、

「二階の部屋は使わないから、1階と地下だけ使わせてくれ」

と強引に占領してしまった。

地下のスケート場には銃や弾丸の置き場となり、機関銃も並んだ。

ホテルの屋上から兵隊が手旗信号をおくり、「尊皇討肝」の旗を掲げた。

近くの来栖邸では日本語がわからないアリス夫人が、てっきり雪の中の演習だと勘違い。近所の退役軍人は野営する兵隊のためにテントを用意し、アリス夫人は愛国婦人会の一員として、26日と27日の夜、おにぎりと豚汁の炊き出しを差し入れた。

 

内大臣牧野伸顕は、孫娘の吉田和子の勇敢な行動のおかげで助かった。

前夜、和子はお見合いの話で祖父と会いたくなり、湯河原へ向かった。

祖父が借りていた伊藤旅館の別棟「光風荘」に着いて、寝たのが夜の9時頃。明け方、銃撃戦の音で、飛び起きた。和子が祖父の部屋に向かうと、狭い廊下で皆川巡査の警官が血を流して、倒れているではないか。かけよって体を起こそうとした。意識はしっかりしていて、

「いや、僕はいいですから、すぐに伯爵のところへいらしてください」

座敷に行くと祖父は起きて床に正座していた。襲撃者たちが火をつけたらしい。建物がぱちぱちと音をたてて燃え、煙が充満しはじめる。和子は夢中で雨戸をあけて祖父たちを庭にだした。みんな裸足である。冷たかった。下の道路から兵隊が撃ってきた。威嚇するつもりなのか、本気で撃ち殺すつもりなのか。

何発目かの弾が和子の髪の毛をかすめる。

火の勢いでサーチライトのように明るく照らされてしまった。とっさに祖母が和子が寝間着の上から着ていた羽織を取り、牧野を隠した。

おもわず和子は祖父をかばうようにして前に立ち、兵に向かってすっと両手を開いた。雪が飛び、風で髪の毛がなびく。赤と黄色の羽織を着た袖もふわふわとゆれた。ピンクのヘアバンドをしていたから、遠目には和子は20歳ではなく、童女のように見えた。

「おじいさま、あちらに逃げてみましょうよ」

と声をかけ、そのまま看護婦と4人で崖っぷちを逃げ、突き当りの黒い塀まで来た。和子が体当たりしたところ、塀がばきっと音をたてて倒れた。祖父の手をひき、腰を後ろからおしながら、裏山をはいのぼる。寝間着のまま震えていると、車がきてくれた。

光風荘は全焼した。皆川巡査は玄関のところに倒れたまま、黒焦げの遺体で見つかった。牧野一家と吉田一家は死ぬまで、命日にはお参りをつづけた。

 

「和子さんは帰国子女で、はっきりものを言う方ですから、戦後は“昭和の淀君”なんて書かれたりもしました。親子そろってマスコミ嫌いなのね。でも、素顔は気さくて、面倒見がよくて、とても可愛い方。ご家族でとても仲よしでした。

長男の太郎ちゃん(麻生太郎)、とてもスケート上手で、戦後は飯塚にスケートリンクをつくりましたね。

226事件のことはときどき話してくれました。一緒にいた看護婦がその後で講演活動したり、新聞に自分の手柄みたいに話したので、とても嫌がっていましたの。牧野家では亡くなられた警官の遺族に3千円を払ったのに、自分には200円しかくれなかった、なんてことも暴露されてしまって。新聞には“牧野は女装して逃げた”とか”警官を見殺しにした”なんて書かれて。警官の方には、生まれたばかりの赤ちゃんがいらっしゃったそうですから、とても気の毒がっていました。いろいろ違うことを言う人もいますが、和子さんはその場にいたのだから、私はこれが本当の話だと思っています。」(稲川悦子談)

 

たか夫人の電話でこれを知った天皇は激怒した。

陸軍には兵たちへの同情者が多く、お互いが腹の探り合いで、鎮圧まで4日かかった。その間、川島義之陸軍大将をはじめ、阿部信行、荒木貞夫がおろおろと対応に追われていた。

ちなみに後に総理大臣になる阿部信行も、ドイツ留学でスケートにはまり、子孫たちは悦子の教え子となる。

4日後、最後まで山王ホテルにたてこもった安藤部隊が、説得に応じて、ようやく終結することになった。

山王ホテル前の車寄せで、整列した兵たちが軍歌を歌っている最中、安藤は拳銃を自分の喉に向けて撃って自決を試みた。

このとき救急車が駆けつけ、一命を取り留める。がしかし、7月には死刑判決を受けて、同士と共に合計、19人が銃殺された。

19人の中には赤いマントで有名だった中橋基明がいた。山王スケート場の常連で、他にも丹生誠忠、竹島継夫、坂本直が軍服のまま、ときたま滑っていたのを悦子は記憶している。

 

「赤マントの中庭さんはとてもめだっていたから、たしかに覚えています。一人ではなく、いつも誰か一緒にきていました。後で聞いた話、彼らには憲兵隊の尾行がついていたから、それを巻くためにスケート場を利用していたそうです」(稲田悦子談)

 

悦子は帰国直前、ミュンヘンエキシビションで、4分間に8回も転ぶという自己ワースト記録を打ち立てた。