稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第14章 ヒトラーとスケート

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ヒトラーはソニアは大のお気に入りとなった。

もともと自分よりかなり年下で、少女らしさを残した若い女性が好みだった。

ソニアはかつてヒトラーが愛した姪のゲリやエヴァ・ブラウンと共通点が少なくない。絶世の美人というよりも、素朴な田舎娘らしい温かみ。やや太めで、笑顔がとびっきりチャーミングなのだ。ヒトラー自身は運動が嫌いだったが、エヴァがスケート好きだったので、ときどき練習には付き合ったものだ。

ヘニーと両親はヒトラーの山荘に個人的に招待され、

「私のお友だちになってください」

ヒトラー本人から申し込まれた。

オリンピックの試合会場でもヒトラーはかなり長い時間、ヘニーと一緒に何枚もの2ショット写真を撮らせた。ヘニーも独裁者の好意に答えて、練習中、何度かヒトラーの前でトウストップして、笑顔をふりまいたり、「ハイル・ヒトラー」のポーズをとってみせたり、取り巻きやマスコミを喜ばせた。

それゆえ、オリンピックでも、

ヒトラーのお気に入りだから、高得点がでたのだろう」

という陰口があちこちで聞かれた。

というのも、最大のライバル、セシリア・コーレッジはイギリス人だった。前回のレイクプラシッド五輪に11歳78日で初出場。これは現在に至るまでオリンピック最年少記録である。今回のヨーロッパ選手権でも、ヘニーと僅少差で二位。

彼女の父親は癌研究において権威ある医者、母親はイギリス空軍の英雄ジョン・ウィリアムス・ブラッケンベリー提督の娘、つまりセシリアは孫娘というわけだ。第一次世界大戦で従軍し、敗北したヒトラーにとって、天敵といっていい。

 

「このやうにしてゐるうちに、二月六日にはいよいよ冬季オリンピツクの開会式が、スキー・スタヂアムで行はれました。その日は雪が盛んに降つて、ヒトラー総統やその方の大臣が列席のもとで壮観な式がありました。フイギュアー女子の出場日は十一日、十二日の両日がスクールで、十五日はフリーの日でした。女子の参加国は二十数ヶ国で、出場選手の最後までがんばつた人数は二十五人でした。あの有名なソニヤ・ヘニーさんは、さすがに自信と落つきがあつて、失敗もなく固くならずに、いつもニコニコとおだやかに滑られます」(アサヒスポーツ「ガルミッシュの想出」稲田悦子寄稿より)

 

ベルリンのヨーロッパ選手権同様、オリンピックもハイル・ヒトラー」の嵐とハーケンクロイツの旗ばかりが目だった。公開練習の際、男子の金メダリスト、カール・シェーファーがさーっと小さな悦子に近寄り、ちょうど赤ん坊を「高い高い」をするみたいに背後から持ち上げた。ペア競技でいうリフトだ。この写真は各新聞に大きく掲載された。

27歳のシェーファーの演技は、他の追随を許さないオリジナリティにあふれていた。ジャンプはふわっと高く、空中で美しいポーズをとったまま、一瞬とまる。

音楽にのり、表現力もダントツだ。ぱっと目に飛び込んでくる印象が強い。

このシェーファーという男、アムステルダム五輪には水泳の平泳ぎで出場している。オフシーズンはオーケストラの指揮者をつとめるほど多才だった。この五輪が終わると人造氷の発明家を父にもつクリスタ・エンゲルマン嬢と挙式する予定だ。

 

「競技のとき自分の番がくるまでは、他の選手達は編物をしたり靴を掃除したりして、少しもあわてないやうにしてゐられるのを見て感心致しました。私より三つ年上の、イギリスのペリーターさんといふ選手のお母さんは、大層私を可愛がつて下さいました。自分の子供が滑つてゐゐ間、私に湯たんぽで足をぬくめてくれたり、セーターを着せてくれたりして、私を自分の子どもと同じやうに親切にしてもらつたので、言葉も通ぜず淋しい私は、ほんとに嬉しかつたです。

フリーの日ペリーターさんは自分がすんでから休憩室で泣き出しました。私は言葉がわからないのですが、なぐさめてあげました。そのわけを後で聞きましたら、フリーで三度こけて、それがくやしいとて泣いたとのことで、こんなところは日本人も皆いつしょだと思ひました。

二月十六日には各種目の競技も終了し、盛んな閉会式が行はれました。その後隠しで見聞したこともありますが、このくらゐに致しておきませう。」(アサヒスポーツ「ガルミツシュの想出」稲田悦子寄稿より)

 

 

フリーの本番で、セリシアが滑るときはなぜか、音楽がでないというトラブルがあった。蓄音機ではなく、生の楽団の演奏にもかかわらず、譜面がどこかに紛れ込んでしまったというのが理由だ。

セシリアは身体が冷えてしまったのか、最初のジャンプでころんでしまう。

とはいえ、このフリー演技で、セシリアは女子としてははじめて、2回転ジャンプのダブルサルコーを成功させた。

さらに片足で跳んで片足で着地するシングルフット・アクセル、それから、上体を後ろに反り返らせるレイバックスピン、キャメルスピンで足をつかむキャッチフットスピン、どれもこれも、はじめて尽くしのプログラムで、技術的にはずば抜けていた。

スパイラルの足もヘニーより高くあがっていた。キャメルスピンも正確なポジションで、回転速度は誰よりも速かった。

ただし、この頃のスケート指導書を読むと、いちかばちかの大技に挑むよりも、安定した技を確実に美しく見せることのほうが重視されている。

ノーミスのヘニーのほうが僅少差で得点が上回った。当時フィギュアスケートの採点方法は規定演技が60パーセント、フリー演技が40パーセントを占めていて、同点の場合はコンパルソリーの順位が優先されて、そのまま全体の順位となった。

7人の審判がいて、悦子の規定演技は9位をつけた審判が一人、12位が一人、13位が3」人、14位が一人、16位タイが一人。

フリー演技のほうは10位が一人、7位が一人、8位タイが一人、9位タイが一人、11位が一人、11タイが2人。総合成績は10位に終わった。

めったに転ばない悦子がジャンプの着地で失敗してしまう。屋外リンクで18番目の滑走だったので、あちこち氷が突き出ていた。

エッジが内側に倒れてしまい、尻もちをついてしまった。

  

「ただ一生懸命やりました。バンドが上手だつたのでやりよかつたわ。氷が悪いので身体がふらつき、しもうたと思ひましたんやがあとは夢中で滑りました。ヘニーさんは上手や、うちも早くあんなになりたいもんやなあ」(東京朝日新聞「えっちゃんの感想」より)

 

優勝したヘニーは悦子について、次のようなコメントを残している。

「技術は既に完成に近く全く感嘆の他はありません。今後の進境は恐ろしいほどです。音楽に対しリズムも良く解し優美でよいが、唯余りに激しい練習の後が見え少し疲れてゐる様だが前途の大成の為には考へねばならぬと感じました、是非周囲の人が早急に多くを求めることなく、彼女の大成を計る程希望します」(「東京朝日新聞」ヘニー嬢語るより)

 

 

 これまでは永井と手探りの状態で自己流の練習をつづけてきた。が、各国の一流選手たちの練習や本番をはじめて見て、収穫したものは大きかった。

 まず曲の選択をもっと考えなくては。それから、ドレスも曲のイメージにあわせたものを用意する。それともっと女らしい振付を考案しなくては・・・。悦子のものは男子選手とあまり変わらないミリタリー調の動きばかりだった。

悦子はシットスピンと高速のスタントスピンが得意だった。セシリアみたいなレイバツクやキャッチフットスピンも試してみたい。まだ若いのだから、スピンもジャンプももっと種類を増やすことができるはずだ。

「お父さん、せっかくたくさんお金と時間をかけてくれたのに、10位なんて成績でごめんなさい」

 悦子はそう謝った。が、光次郎は笑いながら否定した。

「何を言うんだい!そんなふうに考える必要はないよ。悦子のおかげでお父さんは他の人では見聞きできないような素晴らしい体験をたくさんさせてもらっている。あべこべにお礼をいいたいんよ」

オリンピックが終わると、しばらくベルリンで練習。そこからフランスのパリで開催される世界選手権へ出発する予定となっていた。

 

「パリでは観光にも出かけましたわ。ショッピングの街なんて言われてましたけれど、本当に素敵なお店がいっぱい。でも、ほとんど自分のものは何も買っていませんわ。おみやげばかり。

ヨーロッパって第一次世界大戦でも戦場になったせいか、あの頃は品物が少なつたそうですよ。石鹸とか、日用品には苦労していたみたい。

たしかにベルリンではお店に行っても、靴も洋服もそんなにたくさんは売っていなかったのです。でも、パリは別。駐在の方たちは皆さん、パリまで出かけて夜会服などを仕上げるそうです。私には皆さんでお金をだしあって、素敵な試合用のワンピースを作ってくださいました。

エッフェル塔の下がスケート場になっていて、パリジャンたちがとても楽しそうに滑っていたの。とても印象に残っています」(稲田悦子談)