稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第12章 ガルミッシュ=パルテンキルシェン冬季五輪

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スピードとフィギュアスケート選手団は12月25日、クリスマスに出発した。途中、フィギュアスケート選手だけが満洲各地で兵隊たちを慰問し、アイスショーや公開練習を行い、寄付金を募る。

オリンピックに先だって、ドイツの首都ベルリンではヨーロッパ選手権が開催される予定だ。悦子たちはこれに特別参加した後、オリンピックをはさみ、パリの世界選手権にも出場する。

その前後には、ミュンヘンやヨーロッパ各地でアイスショーに参加するという過密スケジュールだ。これは現地入りしなくては詳細がわからない。オリンピックや世界選手権の結果にも左右されるのだろう。

昭和初期の洋行といえば、選択肢は2つ。船旅、あるいは列車の旅か。この時代はまだ飛行機の旅は一部の軍人。あるいはパリーロンドン間など、ごく短い距離に限られていた。

快適なのは船旅の方だ。ところが、横浜からヨーロッパまでは40日近くかかってしまう。行きは満州に立ち寄るので列車の旅、帰路は船になる予定だった。

シベリア鉄道経由だと、パリまでおよそ一万3千キロの長旅になる。釜山まで連絡船に乗り、シベリア鉄道朝鮮総督府鉄道、南満州鉄道を使うと15日ほどで到達する事ができた。

シベリア鉄道ね。あれはダニやノミがいるから寝袋みたいなのを持って行ったほうがよいことよ。私のを貸してあげますわ」

吉田和子が大きな皮の旅行鞄も貸してくれた。スケート靴は意外と重たいものだ。

途中で洗濯できるかわからない。もちろん気温は極寒のはずだ。父と子2人分の衣類は冬ものばかりなので、かさばった。

万歳三唱に見送られ、山口県の下関から連絡船に乗りこむ

なるほど、これがシベリア鉄道なのか。極東の港町ウラジオストックから、首都モスクワを結ぶシベリア鉄道は、全長9297キロ、世界最長だった。

コンパートメント形式で、ワラでできた枕が並んでいる。天井ぎりぎりまで寝台が作りつけだ。

悦子は手頃なのを選び、そのうちひとつにもぐりこんだ。男女の区別はないので、父親はすぐ隣を選んだ。

所要時間は150時間、車中で6泊7日。途中で石炭を補給するため、何時間も停車する。石炭ストーブは置いてあった。が、食堂も何もない。特等室以外は風呂もシャワーもない。清潔を保てるわけがなかった。

和子の助言どおり寝袋をコンパーチメントの上におく。

襟回りにはノミとり粉をふって、首のところをきゅっと巾着のようにしめた。

そうやってジャガイモの袋みたいな恰好で寝る。

夜中に枕につめこまれたワラの隙間で、ダニたちがカサコソと音をたてはじめた。枕ごと新聞紙でぐるぐる巻きにして、そこに頭をおいてぐっすり寝てしまった。

窓から見える光景は、見渡す限り雄大な原野ばかり。地平線の向こうには雲が多い空が広がっている。夜明けと夕焼けはこの上もない美しさで、飽きなかった。

とはいえ、くる日もくる日も同じ景色ばかりがつづく。

ボルシチみたいなスープがときどき販売されていた。汚いアルミの器に注ぐのを見ていると、どうも食べる気にはなれなかった。売り子が塩のかたまりを売っている。スープよりも、それを少しずつかじって、飢えをしのいでいる乗客が多かった。

稲田父子はこれも和子の助言どおり、乾パンとか飴玉とか缶詰みたいなものを用意してあった。少しずつそれを口に含み、ときには雪をとかして喉をぬらした。これが大食漢の悦子にはなんともつらい。大好物のラムネがなつかしかった。

夜はノミとの闘いで、熟睡できていない。うつらうつら食べ物の夢ばかり見た。

ようやくモスクワの駅に到着。信じられないほど、長細いプラットホームだ。そして、信じられないほど寒い。

これまで経験したことがない、皮膚をハリで突き刺すような寒さだ。風も強く、耳がちぎれてしまいそうな冷たさで、だんだん感覚が遠のいていく。

まわりの外国人は皆、毛皮のコートと毛皮の帽子で体中を覆っている。

悦子がかぶっていた毛糸の帽子は列車の外に出たら、いつの間にか、ばりばりと凍りついてしまった。

そこからポーランドへ向かう。さらに列車を乗りついで、ベルリンへ。

このとき留学生や企業人とその家族たちも含めると、ベルリンには千人ほど日本人がいた。駅には外務省関係者やベルリン日本人会が出迎えに来た。総出でオリンピック選手団たちを大歓迎する趣向だった。

中心となるはずのドイツ公使、武者小路公共子爵は所在不明が長びいていた。

というのも、ロンドン軍縮会議の帰り、山本五十六がドイツ側の要望にこたえて、ヒトラーに会うか会わないかで、大島浩駐在武官と意見が衝突した。罵倒され、無能呼ばわりされた武者小路は、家財道具をまとめて日本に帰ってしまったのである。戻ってくる気があるのか来ないのか、誰にもわからない。

「あんな馬鹿野郎はもう帰ってこないほうがいい」

と大島をはじめ陸軍武官たちは我が物顏で、大使室や通信室にも出入りしはじめた。もともとドイツ語の英才教育を受けて育った大島は、大のヒトラー信望者だった。

不在の武者小路に代わって、井上庚二郎がドイツ臨時代理大使を勤めた。駅で選手団を出迎え、

「日本語が通じる家庭のほうが何かと助かるでしょう」

とりあえず全員が到着した晩、大使館関係者や日本人の駐在員家庭にホームステイできるよう手配してあった。

この冬のオリンピックでは日本チームは総勢48名。そのうち役員14名、男子選手33名、女子選手1名という内訳だった。

 

「昭和十年十二月二十四日大阪を出発して、私達第四回冬季オリンピツク大会に出場するフイギュアーの一行は大石監督につれられて朝鮮、満州を経てシベリヤ鉄道からポーランドを通り、ドイツのベルリンに着き、数日の後一月十五日カルミツシュ・パルテルキルヘンの冬季オリンピツク開催地に落ち着くことが出来ました。駅には日本人付きのドイツの学生さんや先着のスピードやホツケーの方々が出迎へて下さつて、自動車で約十分ほど町を通つてガルミツシュの中央ショネツク・ホテルに滞在することになりました(後略)」(アサヒスポーツ「ガルミツシュの想出」稲田悦子寄稿より)

 

ドイツの景気の復活とナチスドイツの人気にあやかり、軍人や地方人(一般人)の留学生も多かった。ガルミッシュ=パルテンキルシェン冬季五輪からベルリン夏季五輪にかけて、実にベルリン在住の日本人は2千人ほどに膨れあがっていく。

すでに大倉商事、三井物産三菱商事といった日本の大手商社がベルリン支社をつくっていた。欧米で日本人として恥ずかしくない生活ができるよう、高給が約束されていた。

経済的にも気持ち的にも余裕にあふれた日本人が多いせいか、誰もが皆が競争にように、オリンピック選手たちをもてなし、大切にしてくれた。

戦前まで海外の日本人大使館では、正月や国民の記念日には大使館を訪れ、天皇陛下の写真に拝礼する習慣があった。

ベルリンでは大使館の2階に日本人学校がつくられ、子供たちが日本語で教育を受けていた。子どもたちが出入りするので、かなり親しみのある交流の場となっていた。

近くの日本人倶楽部には宴会場もあったし、日本食を出す「あけぼの」という食堂もある。日本食にはあまり不自由せず、終戦の当日まで配給も優先され、むしろ食糧事情は日本よりよかった。

オリンピック選手たちを慰労するために、ヨーロッパ中の大使と家族がここベルリンに集結していた。

その一人が、イタリア大使、杉村陽太郎。外務省きっての巨漢で、身長185センチ、体重100キロを超す名物男だ。柔道や水泳など何でもこなす豪傑で、名物男として知られ、日本にオリンピックを招へいするために奔走していた

オリンピック選手村はまだオープンしていなかった。日本人倶楽部で久しぶりの日本食をごちそうになり、選手たちは皆、たちまち元気を取り戻した。

シベリア鉄道では寒くて体をふくことすらできなかった。大使館の仲介で提供された、とある商社マンの家庭は、広い自宅の2部屋を稲田父娘に提供してくれた。

タオルもバスタブも日本より大きく、なんだか白い光沢をおびている。石鹸もたっぷり用意されていて、ぜいたくな花の匂いがした。

ゆっくりと汗を流すと、疲れがふっとんでしまった。

日本と違って木造建築ではなく、家具も山王ホテルみたいに凝った細工がほどこされていた。さらに、天井からは大きなシャンデリアがぶらさがっている。どこもかしこも悦子には映画にでてくるお城かホテルのように思えた。

「お父さん、これ本当にフツーの人間が暮らす家なの。ホテルみたいやん?」

「ほんまやねぇ。借り物らしいが、ドイツ人というのは立派な家に住んどるんやなぁ」

 満州を去ってから、ずっと体を動かしていなかった。普段と同じように滑ることができるのか、悦子は不安で仕方がない。

大使館の目の前がティアガルデン公園で、木が生い茂り、広大な狩猟場になっている。森の中の湖がスケート場になっているそうだ。

ついた翌日の早朝から、さっそく練習を開始した。

さらに、1月16日の午後になると、悦子たち日本選手団はベルリンから車で10分ほど離れたガルミッシュ=パルテンキルシェンへ移された。

ところが、オリンピック選手村は男子の部屋しかできていなかった。悦子と光次郎はセントラル・シュネック・ホテルに滞在した。

選手村にしても、競技場の「アイススタジオン」にしても、当時としては最新式の豪華な設備がそろっていた。フィンランド式や日本式の風呂も完成まじかだ。

もっともここは冬と夏のオリンピックが終わると、兵隊の訓練場や兵舎として転用される予定だ。

白色尽くしの村で、白樺の木が多く、道路には白い雪があふれ、白い鳥があちこちにいる。スタジオンだけではなく、至るところが天然のスケート場とスキー場になっていて、ホテルでスキーを貸してくれた。

「街中はそれで移動するように」

と言われ、悦子もさっそく滑ってみた。最初はころんで雪だらかになってしまった。が、すぐに要領をつかんだ。

軍人や町の人たちがせっせと雪かきをしてくれている。試合会場での練習時間は朝7時から8時まで。他の2か国の選手と一緒の時間が割り当てられ、零下7度から10度という温度の中で滑った。

送迎はドイツの車だった。

いったんホテルに帰って朝食をすませた後、山の中腹にあるリーゼル湖まで連れていってもらう。ベルリンの駅前の池もスケート場になっていて、そこでも他国の選手が貸切練習に混ぜてもらったりした。

 

「町を歩けばヤパンクライネと、数十人の子供や、大きい人人がついて来て、私の体をつかまへてはなしません。そしてサインしてくれと紙とペンをつきつけます。町の通りは皆スキーで行けます。私も一度スキーの道具をつけて町へ出ましたが、私のやうな下手な方は見当たりませんので、帰りはおしりを真っ白にしてホテルへ引きあげました」(1936年アサヒスポーツ「ガルミッシュの想出」稲田悦子寄稿より)

 

ホテルの近くで交通整理してる警官とは顔見知りになり、

「モルゲン!」

と手をあげて、朝の挨拶をかわす。

町を歩いていると、

「ヤパンクライネ!」

と声をかけられ、大人も子供もペンとノートをおしつけ、サインをせがんでくる。「ヤパン」は「日本」、「クライネ」は「小さな女性」という意味だと、教えてもらった。

1月24日。ヨーロッパ世界選手権はオリンピックとほぼ同じ顔ぶれが出場した。

会場はベルリンの屋内リンク「スポーツ・パラスト」で、フィギュアスケートの人気は相当なものだった。一人分の入場料10マルクという高さなのに、プレミアムがついて20マルクで出回り、6千人の観客席が3日間、超満員がつづいた。

昔も今もレオタードとミニスカートを着た冬スポーツは、フィギュアスケートをおいて他にはない。人気がでないほうがおかしかった。

開会式ではヒトラーが演説していた。が、悦子は氷の特徴をまだつかめず、気が気ではない。

終わるとすぐに午後からの規定演技に備えて、何度も滑りこみを繰り返す。

日本よりも湿気が少ないせいか、氷の質がよく、べたっと吸い付くような感触がない。とても氷自体が固く、きれいに製氷されている。こんなに美しい氷で滑るのは生まれてはじめてかも・・・。

いつも練習している山王スケート場とは、氷がかなり違う。丸い鉄の株とみたいに固くて、つるつると滑りすぎる。普段と同じ感覚でリンクに下りたら、いきなり転んで失笑をかってしまった。

父親があわてて、リンクサイドにかけよった。

「どうしたん!緊張しとるんか?」

「ううん、おとうちゃん、大丈夫。氷がかなり日本とはちゃうのよ。早く馴れんと、自分の滑りができへんわ!」

製氷の技術が素晴らしすぎるようだ。日本では竹ぼうきで表面を平らにする。ざらざらとしたアイスになれている悦子は、戸惑っていた。

まだカルフォルニアで有名なザンボーニ兄弟は製氷車の会社を成立していなかった。

ドイツでは製氷隊が10人ほど組織されている。彼らはきちんとおそろいのユニフォームを着ていた。順番に並んで、行進曲にあわせ、トンボみたいなもので氷をならしていく。製氷隊もエンターテイメントの一部になっているようだ。

一滑りした悦子はフェンスにもたれながら、製氷隊にぽーっと見とれていた。異国の言葉が次々と耳に飛びこんできた。見るもの聞くものなんでも珍しい。

四方八方、帽子みたいに白い雪をかぶった山々でぐるりと囲まれている。絵画の中に迷いこんだように美しい。つるつると磨き上げられ、自分の顔も太陽も雲も氷にうつっている、鏡のみたいだ。

その一方で内心かなり焦っていた。本番までできるだけたくさん滑り込んで、早くなれなくては・・・・!

目の前ではソニア・ヘニー、カール・シェファーという、なにしろ新聞でしか名前を見たことがない五輪のメダリストたちが次々と練習滑走している。つい見とれてしまい、自分の足がとまってしまう。

突然、なんの前ぶりもなく、悦子たちの背後で、お客の声がぱたっと静かになった。

一瞬、音も光も時間も凍りついてしまったかのようだ。

かつーんかつーんかつーん・・・と軍人らしい靴の音が迫ってくる。

氷のせいか少しエコーがかかった、落ちついた足取りだ。もしかして・・・。

悦子と光次郎がくるりと後ろを振り向く。そこには見覚えのある髭と目と顔があった。軍服の上に長いコートをはおり、手をポケットに入れていた。

「お父さん、この人?」

「わわわわわーーー!」

驚きで言葉が言葉にならず、白目をむいた父。こんな顔は後にも先にも、このときしか見たことがない。顔見知りになった新聞記者が、声をかけてくれた。

「稲田さん!アドルフ・ヒトラー閣下です!」

ヒトラーはわざわざリンクサイドまでおりてきたのである。そして、悦子に言葉をかけた。

悦子はドイツ語がわからなかった。とっさのできごとだったから、通訳もいなかった。

たぶん名前か年齢を聞かれたのだと予想した。

たちまちつむじ風のようにぱしゃぱしゃ、という音をたてた。

カメラのシャッターやフラッシュのマグネシウムを背中で感じながら、英語で答えた。

「アイアム・エツコ・イナダ。12イヤズ・オールド」

悦子は永井たちから仕込まれた英国ふうの片膝をまげるおじぎをした。バレエでいう、レべランスである。ヒトラーはわかった、わかったというように、微笑み、右手で悦子の左手を握りしめた。

ほんの数秒のできごとだった。

次に、たまたまその場にいたスピードスケート代表で満州出身、早稲田大学南洞邦夫選手もヒトラーから握手を求められた。

その後、ヒトラーは微笑みを浮かべたまま、自分の席にもどっていく。悦子はふたたび練習を開始したものの、心臓は鐘のように鳴りっぱなしだった。

 

 

「オリンピックの直前に、ベルリンで開かれたヨーロッパ選手権に出たんですが、ヒットラーがわざわざリンクのところまで来て、私と握手してくれたんです。私はそのころ、まだ小学生だったんで、何もわかりませんでしたけどねでも、あの独特な歩き方をする兵隊の足音が聞こえると、あ、ヒットラーが来るなつてわかるんですよね」(1977年雑誌「マリ・クレール」インタビューより)

 

日本に帰ってから、和子にこの話をしたら大笑いされた。

「あらまあ、ヒトラーは教養人ではありませんから、英語なんかできませんのよ。ドイツ語で教えておけばよかったわ」

和子も父親の吉田茂同様、ヒトラーは大嫌いだった。が、日本の新聞にも数日遅れて、悦子とヒトラーの写真が載ったそうで、とっておいてくれた。

「スポーツと政治は別ですものね。ヒトラーの写真をみて、お父様がにっこりしたのは、たぶんこれが最初で最後でしょうよ」

ヒトラー総統といわれても、小学生の悦子は日本のラジオやニュース映画にしょっちゅう出ているドイツの人、正確にはオーストリア生まれ、というほどの認識ぐらいだ。

ちなみに吉田茂はこの頃から稲田悦子を見ている。

後年、悦子が長じてパーマネントをかけるようになると、

「稲田悦子は漫画のサザエさんにそっくりだ。モデルなんじゃないのかね」

と吉田は言い張った。サザエさんの作者「長谷川町子」と吉田茂は箱根の別荘が隣どうしだ。互いの家の使用人同士は交流があったものの、主人同士はついに顔をあわせず終いだった。

 

ましてや長谷川町子と稲田悦子の間に接点はなかった。

ただし、髪型といい、口もとといい、忘れ物が多い性格といい、たしかに悦子のことを「サザエさんに似ている」と言う人は多かった。