稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第10章 全日本フィギュアスケート選手権

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全日本フィギュアスケート選手権のはじまり、それは1929年のことだ。

第1回の開催地は日光町の精銅所リンク、2回目は仙台市五色沼、3回目は下諏訪町の秋宮リンク、4回目は東京の山王ホテル、5回目が大阪市のABCリンクと歌舞伎座リンクと1年おきに南下してきた。ただし、あくまで男子の試合だけだった。

第5回全日本は大阪の歌舞伎座のスケート場。ここで女子ジュニア部門がはじめて試験的に実施される。稲田悦子、東郷球子、平塚潤子の3女子が参加した。ここで悦子は規定も自由演技も男子を上回る出来ばえで滑った。

自他共に認めるオリンピック候補として評価が高まったのだ。

父・光三郎は永井にこんな質問をした。

「オリンピックって早すぎませんか?悦子はまだ小学生ですよ。」

「金メダリストのソニア・ヘニーは11歳で初出場しているのですよ」

第6回全日本からはじめて、女子に門戸が開かれる予定だ。

さらにジュニアだけではなく、シニア(選手)部門が開催される。

これまでになく、重要な試合となるであろう。

というのも、この全日本選手権がオリンピック代表選考会も兼ねている。

つまり冬季五輪にはじめて、日本女子をドイツへ送りだす。アジア人女性としても栄えある第一号ということになるはずだ。

当時はまだオリンピックには年齢制限がなく、悦子は小学校5年生。

バイオリン奏者の諏訪根自子と共に、稲田悦子は「天才少女」として、ありとあらゆる子供向けの雑誌に載り、注目度は高まる一方だった。

スケート人気に便乗し、朝日新聞社は1935年、全日本に先だって、オーストリアのウィーン出身、フリーツィこと、フリーデリケ・ブルガー嬢を招へいした。

1928年サンモリッツ五輪、1932年のレイクプラシッド五輪で、あのソニア・ヘニーに次ぐ連続2位で銀メダルに輝く。引退後、プロスケーターに転向していた。

悦子が歓迎の花束を渡し、マスコミ各社が集まって、2人の2ショットを撮影した。フリーツィは14歳年長で、2人が並ぶと悦子は頭3つ分ぐらい背が低い。踏み台が運びこまれた。

さっそく山王ホテルで歓迎パーティーを催された。このときドイツ語の通訳に借りだされ、記事を書いたのが上海から大阪を経て東京へ転勤になった尾崎秀実だ。ころっと太って、血色がよく、あいかわらずニコニコと愛想がよかった。

「やあやあ、えっちゃん、立派になったねえ」

もっともフリーツィの方もフレンドリーで積極的な女性だった。あまり通訳を必要としていなかった。

スケート連盟会長の川久保子朗や老松一吉や田代三郎といった男子のスケート愛好家たちが、歓迎パーティーでお酒や料理をつまみながら、機嫌よく噂話をしていると、

「どんな話をされているのですか?」

とフリーツィが片言の英語で、輪の中に入ってくるではないか。

身振り手振りもまじえて話したがるので、誰だったか、

「意外とうるさい娘じゃのー」

と混ぜっ返し、なごやかなムードで、笑いがあふれた。

その場に真珠の養殖に成功した御木本真珠の娘婿、西川藤吉がいて、

「ほんまに、うるさいおなごじゃ。じゃが、美人じゃせがれの嫁にもらうかのー」

と言い、どっと笑いの渦に包まれた。

西川社長の息子、西川真吉は慶応大学スケート部に在籍した後、卒業後は御木本真珠店の欧州出張員として、奔走していた。というのも、御木本真珠店はすでに、上海やフランスのパリ、イギリスのロンドンや米国のロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴに海外支店を開いていたのである。

そのパーティー会場に真吉はいなかった。にもかかわらず、半年もしないうちにフリーツィとの結婚が発表された。

以後、さまざまな苦労を夫婦で乗り越え、日本のアイスショーの発展に貢献した。日本スケート連盟主催のアイスショーで、フリーツィが観客の声援に応え、アンコールでもう1曲滑った。これだけで轟々たる非難を浴びた。

アンコールに応じること自体、「お客に媚びている」という解釈だった。

また、別な日はリンクサイドで演奏している楽隊の中に、男子のスケート選手が混ざっていた。途中、フリーツィの誘いに応じて一緒にペアスケーティングを披露するという、意表をついた演出があり、これもまた同様の批判を浴びせられたものだ。

 

「ブルガー嬢がこの度オーストリアから日本に来られたことは私たちスケーターの大変うれしいことと思ひます。ブルガー嬢のスクールを見まして日本の選手よりスピードがありますからトレースがふるへないし、またターンが早いからチエンヂが混りません。ワンフート・エートのチエンヂのところなどよく乗っておられます、そして大変エツヂを上手に使つていると思ひました。

 次にフリーはスピンの後などがきびきびしてその上音楽によく合っています、エキジビションではありましたけれども日本人のやうに恐い顔をせずいつもにこにこしてほんとにやわらかくとてもスピードがありました。

 私はブルガー上のあのスクールやフリーのよい点を見ましてもつと勉強せなばならないと思ひました。私はスクールはまだよく見せていただく時間がありませんので一寸見た時の事だけ書きました。」(1935年アサヒスポーツ【日本女子のナンバーワン】「稲田少女は斯く語る」より)

 

東京市西芝浦に完成した芝浦スケート場をはじめ、フリーツィは日本中で巡業したので、悦子は何度も一緒に練習する機会に恵まれ、何から何まで驚きの連続だった。

まず彼女は試合用とアイスショー用、2つのフリープログラムをもっていたこと。スピード感にあふれているのに、上体の動きが豊かで、音楽から決してぶれないこと。スクール・フィギュアにおいて必ずエッジをはずさず、ターンの直後の姿勢が実に決まっていること・・・。勉強になることばかりだった。

第6回全日本が近づくと、オリンピックを意識して、麻生和子に横浜のドレス専門の洋装店を紹介してもらう。そこで本番用のスケートドレスを注文した。それまでは母親のハツが縫っていたので、普段着とあまり変わらなかった。

氷上でも映えるように光沢のあるサテンのベージュ色の布を選ぶ。大きな白い丸エリに白いボタンを縦に並べ、白い手袋もあつらえた。おそろいの布でベレー帽も作ったが、これはスピードをだして滑ると飛んでしまうので、本番では使わなかった。

足にまとわりつくと滑りにくいので、ぎりぎり膝が隠れる長さを希望した。けれども、洋裁店のほうは保守的で、

「信じられないほど、短すぎる」

と反対し、

「うちのお客さまは華族さまが多いのです。そういうものは、浅草の芸人の衣装を扱う店のほうが向いているのでは」

とまで言われる有様。

まだ洋装といえばロングスカートが主流、着物や袴姿の女性のほうが多かった。足首が見えただけで殿方は胸をときめかせたものだ。

同じ頃、テニスの岡田早苗や林美喜子は膝下のスカートで、すでにプレーしていた。

テニスの男子は長いズボンが基本とされ、スケート男子はタキシード、あるいはニッカーボッカーばかりだった。

悦子はそれまで長い髪を三つ編みにしていたが、大人っぽくみせる目的もあって、美容院で短くしてもらった。眉の上は2センチほど、耳は全部が見えて、後ろは刈り上げに近かった。

モガを気取ったわけではなく、学生の模範とされていた「三つ編みおさげ」はスケート選手には不向きなのだ。それまでは練習のたびにまとめていた。長い三つ編みおさげは高速スピンで回転すると、まわりの人にぴしっぴしっとムチのように当たってしまうのだ。

日本はまだフィギュアスケートにおいて、「着飾る」という概念がなかった。あくまでスポーツだし、それまで男子しかオリンピックに行っていないから、振付にしても「女らしさ」に欠けていた。

自由演技の音楽はさんざん迷ったあげく、

「開催国がドイツだから」

という単純明快な理由で、永井はシューベルトの「ミリタリーマーチ」を選んだ。フィギュアスケートの競技用のドーナツ盤レコードだったので、きっちり5分の長さに編集されている。

「ドイツの曲だから、ドイツ料理の店で、雰囲気をつかみましょう。根性試しというやつです」

永井はそう言って、尾崎秀実に紹介された西銀座5丁目にある「ラインゴールド」というドイツ料理店に、ときどき連れて行ってくれた。樽を模した凝った造りのドアを開けると、店の中は異国ふうだった。ときにはヴァイオリンでドイツ音楽の生演奏もあったここもスケート場と同じで、子供の姿はほとんどなく、大人ばかりで、外国人客も珍しくなかった。

「かわいいお嬢さんですね。娘さん?」

「いえいえ、私のお弟子さん、フィギュアスケートの選手なんですよ」

「あら、そうなんですか!ここ犬養健さんがいらっしゃるので、私もアイスショーのチケットをいただいたことがあるんですよ。素敵だったわ」

「ドイツの曲を滑るので、ドイツの雰囲気をつかませようかと思って・・・」

「店のオーナーはドイツ人なんですよ。前の戦争のとき捕虜になって習志野にいて、日本が好きになったから、日本人と結婚して店をもったそうです。お客様も半分は外国人ですわ」

女給は日本人ばかりだったので、少しほっとした。給仕してくれたのは岡山出身の女性で、アグネスと呼ばれていた。みんなドイツ風の源氏名をもらっているそうだ。

たしかに緊張して、あがってしまいそうだ。悦子は大食漢のほうだったが、何を食べたか、味がよくわからなかった。

いずれにせよ、永井がジャズやブルースではなく、シューベルトの「ミリタリーマーチ」を選んだのは、賢明で無難な選択だった。シューベルトオーストリアのウィーン出身で、とりわけドイツ歌曲でも人気がある音楽家だった。

アドルフ・ヒトラー総統が最盛期を迎えつつある。ヒトラーワーグナーがお好みで、クラシックでもユダヤ人が作曲したものやジャズは「退廃的な音楽だ」と毛嫌いした。

ナチスの圧力で上演を禁止するようになり、ベルリン・オーケストラですらユダヤ人音楽家は亡命を余儀なくされるか、強制収容所に送り込まれた。音楽家の親善大使、近衛秀麿は彼らをかくまったり、逃亡を助けたりしたので、危険な立場に追い込まれる。

すでにドイツは世界恐慌から立ち直り、失業者が激減し、道路や公共施設も整い、暮らし向きがよくなって、ヒトラー信望者は激増していた。

ヒトラーの側近にはヨーゼフ・ゲッペルスという天才的な宣伝大臣が寄り添っていた。報道や言論への操作と弾圧、イメージをアップさせる話題の提供、パレードや政治集会の演出と宣伝。

ナチスドイツの軍人たちは服装も粋で、他国より宣伝ポスターにしても軍歌にしても、垢ぬけてスタイリッシュだった。軍隊の行進ひとつをとっても、一体感がある。

「ドイツもヒトラーも日本でものすごく人気がありました。軍人や政治家はヒトラーにみんな憧れて、そっくりの口調と姿勢で演説していましたね。宝塚もドイツ歌劇をたくさんやるようになったし、ヒトラー・ユーゲントナチス青年団)が来日したときなんて、ウィーン少年合唱団が来日したときと同じぐらい大騒ぎでした。まわりはヒトラーや軍人に憧れを抱く人がいっぱいいたけれど、私はどこか冷めていました。来栖大使も吉田大使もナチスドイツを嫌っていること、わかっていましたから、他の小学生は知らない情報もたくさん見聞きしていましたからね」(稲田悦子談)

 

永井と悦子はポータブルの手回し蓄音機を持ち込んで、夢中で練習に打ち込む。アンプはない。たくさんのお客が滑っている営業時間では、なかなか音楽が聞こえてこなかった。

だがしかし、どの選手も悪条件はみな、同じである。

マーチを選ぶ選手が多かった。これだと途中で音を聞きのがしてしまっても、121212とカウントをとっていい。

1936年の冬季五輪はガルミッシュ=パルテンキルシェンで2月9日から15日。夏季五輪が首都のベルリンで、同年8月1日から16日が開催日だったガルミッシュ=パルテンキルシェン冬季五輪。悦子は何度聞いても、なかなか覚えられなかった。もともと2つの村だったのを、ヒトラーが急きょ合併させてしまったためである。

ヒトラーはスポーツ事情にうとく、最初はオリンピックのことも、難色を示した。

「しょせんはユダヤ人の祭典だろう?」

もともとスペインのバルセロナと開催地を争い、43対16でのドイツに決まったのが1931年。ヒトラーが政権をとる前のことだった。ゲッペルスをはじめ側近たちから、

ナチスの正当性を世界に宣伝するプロパガンダ効果が期待できます」

と説明されると、

アーリア人の優秀性と自分の権力を世界中に見せつける絶好のチャンスだ」

と一転してやる気をみせた。スタジアムと選手村はもちろん、空港やホテルや道路や鉄道の整備に着手し、まだ実験段階であったテレビ中継の受け入れ態勢も急ピッチで進められた。

ヒトラーはまずは同性愛者と障がい者を追放。つづけて共産主義者や過激なユダヤ人迫害政策を進めた。物理学者のアルベルト・アインシュタインなど、ドイツに帰れなくなり、アメリカで亡命の手続きをとったほどだ。

一時期ユダヤ人たちへの迫害を理由に、イギリスやアメリカは開催地の返上やボイコットの動きをみせた。これを知ったヒトラーは一時的にユダヤ人政策をゆるめ、演説から有色人種批判をはずすほど、一転してオリンピック熱にとりつかれていった。