稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第9章 初期のオリンピック

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抗生物質も人工心肺もなく、医学が今ほど発達していなかった戦前、さまざまなスポーツや剣道や柔道。今よりずっと重みが置かれていた。

産後の肥立ちが悪く、出産で命を落とす女も少なくなかった。

風邪や盲腸炎をこじらせたら、癌はもちろん、肺結核となれば、不治の病に等しい。

重い病気にかかったら、余裕のある家庭では病人を空気がきれいな療養地、あるいは温泉地へ送り出す。そこで温泉につかりながら身体を休め、栄養をとって滋養すること。

それが主たる治療方法であった。

予防接種もまだ広まっていなかった。病にかからないよう、日ごろから体を鍛えるしかなかった。

ここで初期の五輪について、ふりかえっておこう。

日本のスポーツが国際的な舞台に立ったのは、1912年のことだ。

「ミスター・カノー」こと、嘉納治五郎は、兵庫県の名門の出で、父親は勝海舟のスポンサーだった。幼い頃から勝を見て育ち、憧れ、尊敬していた。

長じてから、東京高等師範学校の校長となり、講道館柔道の創立。やがて、日本のオリンピック初参加や東京オリンピック招へいに尽力する。広田弘毅もここで黒帯を勝ち取った。

嘉納は国際オリンピックの第5回ストックホルム大会に、はじめて日本人選手を送りこむ決意を固めた。ところが、日本には競技場も体育館もまだ何もなかった。

代表選考会「オリムピク大会予選競技会」の会場に選ばれたのは、今の羽田空港に近い「羽田村運動場」。参加者のほとんどが地下足袋をはいていた。

ラソンでダントツの走りをみせたのが、熊本出身の金栗四三東京高等師範学校に在学中の19歳だった。

短距離のほうで好成績をおさめたのが、三島弥彦。これもほぼ予想どおり。華族だったので、学習院から無試験で帝大に進み、野球とボートはじめ、柔道は2段。フィギュアスケート、乗馬、相撲とこなす万能スポーツマンだった。

資金ぐりのほとんどは嘉納が賄い、岩崎弥太郎西園寺公望ら財界人も援助を申し出てくれた。

もともと三島は五輪出場を機に半年ほど海外を留学する予定でいた。

ストックホルムシベリア鉄道で向かう途中、モスクワでは日本大使館員と共に、嘉納とたった2人の選手団がロシアの上流階級のパーティーに出席した。

三島は庭園にあるアイススケート場で、若いロシアの令嬢を相手にスケートの演技をみせ、拍手喝采を浴びた。

日露戦争が終わって4年後しかたっていない。敵国だったロシアにおいて、スポーツとスケートが親善と理解を深める役割を果たしていた。

とはいうものの、ストックホルム五輪では予選落ちしてしまい、三島も金栗も悔し涙に

4年後の開催地はドイツのベルリンだった。嘉納たち一行はそこを下見した後、そのまま三島はロンドンへ。金栗は帰途につき、ドーバー海峡渡航している最中、明治天皇崩御のニュースが飛び込んできた。

旧青山練兵場(現外苑)葬場殿にて大葬儀があり、国民は喪に服した。

東京市では市内に明治天皇を祀る神宮を創建することを決定。代々木に内苑、青山練兵場に外苑がつくられた。

その外苑に競技場が建設され、1924年に第一回明治神宮競技大会が開催。これが今の国体(国民体育大会)につながっている。

はじめて五輪でメダリストになった日本人は、テニスの熊谷一弥。1920年、アントワープ大会で銀メダルを取った。

初の金メダルは三段跳びの織田幹夫で、1928年、アムステルダム五輪だった。

ときのオランダ大使、後に東京裁判で絞首刑となる広田弘毅は日本応援団の先頭に立って、あふれる涙をぬぐおうともせず、君が代を熱唱した。

「一人のオリンピック選手が100人分の外交官の役割を果たす」

と感激し、五輪招へいに協力を惜しまなかった。

浜田常二著「大戦前夜の外交秘話」によると、ベルリン五輪の前後、「国民使節」を名乗る日本人が次々とドイツを訪問した。オランダ大使を終えた帰国して広田が、外務省情報部長、外務大臣、総理大臣と肩書きを変えつつ、「国民使節」たる肩書を推奨し、旅券の査証を惜しみなく発行したためである。

「国民使節」になった人の多くが外務省から全額、あるいは一部の旅行費を負担してもらっていた。それ以外にも陸海軍から「視察」や「留学」という名目で、武官たちが潤沢な費用を支給され、きちんと勉強する者もいれば、ギャンブル三昧で帰国する者もいた。

自腹の旅行なのに、「国民使節」を自称する輩も後をたたず、たいていがヒトラー総統との会見を強く希望した。

鳩山一郎にいたっては、

「広田君からともかく、国民使節という肩書をつけて、いってくれ、と無理におしつけるんですよ。迷惑千万です」

 という不満を口にした。

 「国民使節」は政治家や軍人だけではなかった。指揮者の近衛秀麿やバイオリンの諏訪根自子も抜擢され、海外留学を果たす。

 悦子もその影響で、将来はスケートで欧米留学を夢みるようになった。

 

「昔の日本人は自分のためではなく、まず日本のため。諸外国に追い付き、追い越そうという気構えがすごかったのです。

日本を外国で認めてもらうため、スポーツでもオリンピックでも何がなんでも頑張ろう、という空気が高まっていました。体育にすごく力を入れていて、男子なんて剣道や柔道だけではなく、軍事訓練で射撃とか、棒取り、綱引き、騎馬戦・・・半日ぐらいは学校でも運動していたんじゃないかしら。

女子はお裁縫の授業があったから、体育はそこまで多くはなかった。マラソンや陸上を少し。まず小学校3年生になると、1年生のために全員がブルマーを縫うの。雑巾とエプロン以外では、それが最初の衣類で、次は浴衣、ブラウス、スカートという感じで、女性雑誌にも普通に型紙が載っていましたね。

和才も洋裁も習いました。私は自分でスケートドレスも縫えるんですよ。カタリーナ・ヴィッドも自分の衣装は自分で縫っていたし、ほんの数年前まではそれが当たり前だったんです。夜会服と違って、動きやすくなくてはいけない。さらに白い氷の上ではえなくてはいけないから、スケートドレスにはコツがいるんですよ」(稲田悦子談)