稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第8章 名物外交官たち  

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「外交官のご家族の方は、皆さん、麻布近辺の洋館を建てて住んでいらっしゃいました。海外駐在の間は人に貸しているので、戻ってきてすぐに空かない場合は、山王ホテルで暮らしていたのです。東郷いせさんもそうでした。スケート場の上に住んでいたら、それはもう上手になりますよねえ。

吉田(茂)さん来栖(三郎)さんも家族の皆さん、英語がお上手なんですけど、親は日本語を習得させたくて、悩んでいました。だから、毎週一度は歌舞伎に連れていくご家庭も多かったし、小学生だった私はうってつけのお相手だったみたい。仲良くさせていただきました。

それに皆さん、スケートが上手でした!来栖さんの御宅は海外駐在中、お正月はいつもスイスに行ってスキーとスケートの毎日だったそうです。

吉田和子さんは九州飯塚の麻生家に嫁がれて、麻生和子さんになり、ちょっと下宿させていただいた時期もあるんです。そのときは吉田茂さんが総理大臣だったのです。今だったら考えられないでしょうが、戦後のごたごたしたときで、新聞記者は誰も気がつかなかったみたいです。外務省の若い方が、“すみませーん、アイロン貸してください!”とか、入ってきて、私のことメイドか何かと思ってたようです。

和子さんはスケートでもなんでも、日本舞踊もお華もできる方でした。でも、スポーツは乗馬がいちばんお好きだったみたい。お嫁に行くとき、愛馬を連れていったら、九州の方たち、”女が馬に乗っている!“とびっくりされたみたい。

長男も次男もスポーツ万能で、スケートもお上手でした。上の太郎(麻生太郎)ちゃんはモントリオール五輪に出場するんですけど、次男の方はヨットの事故で亡くなられて気の毒なことをしました。和子さん、本当につらそうで・・・。そういうときは“自分は一度は226事件で死んだ人間なんだ”と言い聞かせ、歯を食いしばって頑張ると話してくれたことがあります。」(稲田悦子談)

 

関西から上京していた悦子以外だと、この「東京スケート倶楽部」で目だっていた選手は、2人の東郷だった。ちなみにこの2人に血縁関係はない。

一人は東郷球子で、悦子よりも8歳年長だった。祖父は海軍中将の東郷正道で、海軍兵学校出身。日本海海戦では第6戦隊司令官を勤め、男爵が遺贈された。

球子の兄も学習院のスケート部に在籍。全日本選手権に出ていた。

球子も早くから頭角を現し、西の稲田悦子、東の東郷球子と言われた。

球子は適齢期になると結婚して、戦後もスケート連盟にボランティアで関わった。

もう一人、東郷いせは外務省のビッグネーム、東郷茂徳の娘で、悦子より1歳年長だった。ドイツでは大使館の目の前に広がるティアガルデン公園の湖が、冬はスケート場になってにぎあう。そこで、いせは正式なレッスンをとっていて、ドイツ人の先生は、

「いせならオリンピックも夢ではない」

と太鼓判を押した。

いせの母、エディはドイツのハーバーで生まれ。父親が銀行家だった。ソ連のモスクワの金融機関で頭取に就任したから、3歳から13歳までエディもモスクワで暮らした。

その後、父は神戸の国際金融機関の理事になった。

家族で来日。17歳のときエディは神戸に滞在中の建築家、ゲオルグ・ラランドと恋に落ち、翌年結婚した。

ゲオルクは神戸オリエンタルホテルや神戸の通称風見鶏の家や横浜ドイツハウスなどの設計を手がけた。

満州にも進出する話が進んでいた。ところが、下見に行って日本に戻った直後、心不全で急逝してしまう。エディはまだ27歳。5人の子がいる未亡人になってしまった。

ドイツへ帰国し、学校教師の仕事につくなどして、懸命に子供たちを育てた。

そして、33歳のときだ。友人のラドウィッツ夫人に紹介された。

「日本の大使館で働いてみませんか?アシスタントの口がありますよ」

東郷茂徳は37歳、一等書記官として赴任してきたばかり。

ゲーテやシーラに詩集について語り合っているうちに、2人はお互い心ひかれあう。

1921年3月に帰国。エディに結婚を申し込む。

1922年2月10日、帝国ホテルで挙式した。

エディ子という日本名にして、日本国籍をとった。

同年、いせは8月14日、東京の浜松町・木下病院で生まれた。外交官は必ず赴任前と赴任後、伊勢神宮に参拝する。それにちなんで、いせと名づけた。

親族の説得に時間がかかったものの、外務省関係は好意的で、結婚は意外とスムーズだった。

ところが、ナチス傘下になると、ドイツ人と日本人の結婚は禁止される。

女優の田中路子がドイツの富豪と結婚するとき、外務省が間に入って交渉をもつ。

「子供をもたない」という条件つきで、やっと結婚がやっと認められた。

それほど、ヒトラーアーリア人の純血主義にこだわり、日本人を劣等民族と見下していた。

東郷は二度目のドイツ赴任では、全権大使としてヒトラーと会談を繰り返す。言葉の端々に危険なものを感じて、不信感を抱く。

エディはイデオロギーの違いに悩まされた。

長女のウーズラはナチ親衛隊の将校と付き合っていた。が、その後は元国防軍参謀将校と結婚する。次女のオティーは体操教師、三女のユキはウィルヘルム研究所の精神科学者とそれぞれ結婚。この2人の結婚披露宴は「ブリュッヒャー・バレ」と呼ばれる美しい宮殿、日本大使公邸で催された。

4女のハイディも鉱山技師と結婚して、それぞれ自活していた。

末子のギドだけが行方不明。ナチスの国策は障害者や同性愛者から市民権を奪うものだった。

ギドは強制的に病院に収容され、1943年4月に心臓発作で死亡届がきて、エディは心を痛め、病気がちになってしまう。

その頃から、「エディはユダヤ人だ」とか、根に歯もない噂をたてられるようになった。東郷自身の出自もあわせて、怪文書が出回った。

エディはユダヤ人ではなく、ナチス党員でもなかった。

しかし、ナチ党の友人は多かった。中でも、駐日ドイツ大使のオットー一家や秘書のゾルゲとは親しく、交流をもった。

この怪文書という、脅しに近い中傷は後々までつづき、東郷一家を精神的に追い詰めて行く。やがて、外務大臣として辞任のタイミングを誤る。、アメリカに宣戦布告する流れを止めることができなかった。

 

「いせお姉さまのことは仲良くさせていただきました。彼女はバレエや社交ダンスやタップダンスやロシアダンスも習ったことがあるので、とても踊りがお上手でした。ソ連では社交パーティーでスケートを披露することもあったそうで、とても度胸があり、堂々としかも品よく滑る方でした。

身長は170センチぐらいあって、今みたいにジャンプ中心だと小柄なほうが有利なのですが、あの頃は芸術性とスケーティングの美しさが重視されていました。演技が大きくみえるから、とても舞台映えしたんですよ。

いせお姉さまはお父さまと同じ外務省の方と結婚されて、すぐに双子が生まれたし、お母様が肝臓を悪くするし、東京裁判もあったでしょう。海外暮らしで、結婚した後はスケートの世界から遠ざかってしまいましたね」(稲田悦子談)

 

永井は上京の折、山王ホテルの部屋をとった。

まだ小学生だった悦子は、上京の折は外務省関係者の家に泊めてもらった。

外務大臣広田弘毅は、五輪の東京開催を強く望み、さまざまな招致活動を行っていた。国際連盟を脱退してしまった日本が世界から孤立することを怖れ、文化活動には力を注いでいた。

東京スケート倶楽部では練習の後、日枝神社のすぐ横にある来栖家に立ち寄ってお茶やお菓子をいただく習慣があった。

ツツジが咲き乱れる美しい西洋式の屋敷だ。

この来栖家は家の中で靴を脱ぐ習慣をもたず、シャンデリア、ソファー、暖炉、カウチ、カーペットと生活様式アメリカそのままを持ち込んでいた。異国みたいなもので、悦子は戸惑いっぱなしだった。が、とても暖かいフレンドリーな家族だったので、すぐに馴染んだ。

メキシコ大使館に面して、裏は「近衛さんの森」と呼ばれ、公家の近衛文麿の邸宅と森が広がっていた。東郷いせの両親とも親しい来栖三郎一家の自宅だった。ニューヨーク生まれの来栖アリス夫人は庭師に頼み、一部を日本庭園に仕上げていた。

長かった海外暮らしから帰国したばかりで、アリス夫人はとても面倒見がよく、オープンな性格だった。教会や大使館の関係でたくさんの友人が出入りして、週末になるとダンスパーティーの会場になる。アリスは誰からも「マミー」と呼ばれていた。

 

長女のジェイはシカゴで生まれ育ち、日本語は片言しかできなかった。次女のピアにしても、なかなか日本語を覚える機会がなく、午前中は家庭教師、午後だけ雙葉女学校に通っていた。

友だちは外務省の帰国子女ばかりで、吉田茂の末娘、和子やアメリカ大使のジョゼフ・グル―の娘のエルシーとは親友同士で、家でも会話もほとんど英語だった。日本語に慣れ親しむ上で、悦子はうってつけの相手だったのかもしれない。すぐに親しくなった。

長男の良だけはシカゴで生まれた後、8歳からは一人だけ、日本の親戚に預けられて育ったから、日本語も英語も完璧だった。

横浜工業高校のラグビー部にいて、忙しそうだったが、それはもうとびっきりの好男子だった。

「あとにも先にもあんなにすばらしい男子、ちょっと思いつきませんね」

と悦子が語るほど、容貌も性格も優れていて、来栖家期待の跡取り息子であった。

飛行機が好きで、暁星中学から横浜工業高校へ進み、YMCAの寮で暮らしていた。駐日大使のジョゼフ・グルーが後見人で、良のことを「わが息子」と呼んだ。

ジェイも良もシカゴ育ちだったから、子供の頃から冬の遊びといえばスケートだ。

和子やエルシーやいせもまじえて山王スケート場で滑ったり、スケート場を見渡せるバルコニーでアイスクリームがのったグレープジュースを飲んだりしたものだ。

来栖家と吉田家は妻同士も仲が良く、グルー大使夫人と連れ立って毎週のように歌舞伎に出かけていた。吉田家でも悦子はずっと後までスケート以外の場所でも関わっていくことになる。

 

「来栖さんのお父さまは外務省にお勤めでしたから、そんなにはお会いしていないんですけど、新聞ではときどきお名前と写真を拝見しました。日独伊三国同盟のとき、調印された大使様でヒトラーとご一緒に写真が載っていましたし。米国のワシントンに飛んで、真珠湾攻撃がはじまる日まで、国務長官ルーズベルト大統領と交渉をもった方です。

226事件の後、ベルギーやドイツに大使として駐在されたので、私がスケート留学させていただく話もあったんですよ。そんなかんや全部が戦争でダメになってしまいましたが。

長男の良さんはとても残念なことに、福生飛行場で終戦の年に戦死されてしまうんですよ。プロペラ事故で、首をはねられたそうです。ご立派な方だったのに。シカゴ育ちだったから、スケートもお上手でね。来栖大使は脳卒中で身体が動かなくなってしまうのですが、マミー(来栖アリス)がそれはもう献身的に介護していました。

山王ホテルからすぐ、首相官邸の裏あたりに、御自宅があって、軽井沢の山荘にいる間に空襲で丸焼けになってしまいました。その敷地の半分にアパートを建て、半分に御自宅を建て、マミーは英語教室を開いたんです。私も戦後はそこのアパートを借りて、英語を習ったりしましたわ。たくさんお孫さんに恵まれて、幸せだったと思います。

終戦の年に生まれた最初のお孫さんの一人が六大学のスターと結婚され、名古屋に行きました。ご存じかしら?星野仙一さんというピッチャーです。

私は野球はルールも全然わからなくって。ピッチャーの人ってクリスチャンが多いのかなぁ、と思って、聞いたことがあるんです。あれは十字を切っているんじゃなくて、サインを出しているそうですね」(稲田悦子談)