稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第7章 山王アイススケート場

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山王ホテルといえば、昭和史を語る上で欠かせない。

1932年.安全自動車の経営者、中谷保によって創業された。

開業当初の部屋数は80室、後に増築されて149室。鉄筋コンクリートの洋館と和風建築の日本館が併設された。

2.26事件、ゾルゲ事件、インド独立運動をめぐる山王会議、GHQによる占領、いずれも山王ホテルが舞台となる。

2.26事件のときは4日に渡って占領された。その間、地下のスケート場も武器置場となり、機関銃も並んだ。最後まで抵抗した安藤輝三中隊長は、ここなら背後が宮城(皇居)なので、大砲なんぞ向けられるわけがない、と考えたのである。

 

もともと皇居があった場所に、太田道灌平山城を築き、徳川幕府がそれを改修して、江戸幕府の政庁とした。

つまり、このあたりは参勤交代で地方から江戸をめざす大名や家臣たちの滞在先だったのだ。

それが明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となる。

山王ホテルの周辺は維新で功労があった鍋島直正が、2万坪の土地を譲り受けた。

鍋島伯爵はヨーロッパの貴族文化を学び、洋館や和館を建てた。

日本が欧米列強の植民地にされる恐れを抱き、鹿鳴館外交にも貢献している。

大正の終わり、関東大震災で、鍋島邸の洋館が崩れ落ちた。木曾の良材でつくった通し柱の和館だけが、なんとか倒壊を免れた。

周辺は瓦礫の山と化す。

さらに震災直後の火事で一面が焼け野原になった。

 

復興する過程において、国会議事堂の建設工事も進み、次々と各省官邸や各国の大使館が建ち並ぶ。

天皇を守る近衛連隊や陸軍省海軍省など、軍事施設もすべて近代的なものに生まれ変わった。

 

ところが、この界隈は第二次世界大戦の空襲では標的となり、ふたたび焼け野原になってしまう。B29は米国大使館はもちろん、主要なホテルには爆弾を落とさなかった。

終戦直後から、連合国軍に接収された。1983年までアメリカ軍の居住施設(U.S.Naval Joint Service Activity Sanno Hotel)として存在した。

1983年には別な場所にニュー山王ホテルを完成させ、現在に至っている。

 

永井先生と東京に行くと、まず最初に宮城の前に行って、参拝するの。国会議事堂はまだ建てている途中だったわ。あのあたりは江戸時代からお屋敷町だったけれど、関東大震災でほとんどすべてが倒れたり、焼けたりしてしまったそうよ。私が山王スケート場に行きはじめた頃は、周囲に空き地や森がたくさんあって、野生のキツネとかタヌキとか野鳥も珍しくなかったんですよ。大阪のほうが震災がなかった分、都会はごみごみしていたし、栄えている感じでした。円タクも大阪のほうが先だったし。“どこに行くのも1円”という宣伝文句でスタートしたんだけど、すぐに値崩れしたわ。あの頃のタクシーはメーターがなくてね。人力車と同じよ。乗るときどこまでいくらで行くのか、運転手さんと交渉するの。そうそう、皇居の周辺だけあって、馬や人力車に乗った人は何人も見かけたわ。和子さんのお父様(吉田茂)も外務省に馬で通ったそうだし、山王ホテルにもお客さん用の馬小屋がありましたよ、道路がまだよくなかったから、車が通ると砂埃がすごくってね。」(稲田悦子談)

 

幼かった日々、悦子にとって山王ホテルこそが東京の象徴だった。

こけら落としアイスショーで、大阪から一緒に呼ばれた。スケート仲間たちは、がちがちに緊張してしまった。

とびぬけて小さかった悦子にはまだ何がなんだかわからない。

楽団の演奏にあわせて、無我夢中で滑った。

客層が大阪とはまったく違っていて、まるで別世界。豪華絢爛。ブルジョワ階級ばかりだった。

パーマネントをかけた髪や洋装が多く、国宝級の着物を召した貴婦人が大勢いた。

 

じきに悦子は強化選手として、山王リンクで特別に練習するようになると、皇族や華族、政府の高官たちの家族をしょっちゅう見かけた。不敬罪が明文化されている時代だ。

もともと永井は普段から弟子たちにはスケートだけではなく、躾全般、レストランでの食事やたしなみやお辞儀の仕方など、西洋式のマナーを教え込む主義だった。

大阪朝日新聞社のABCリンクでも、下階にある洋食の「アラスカ」で食事しながら、

「ナイフは右手、フォークは左手にもちましょう」

あるとき、永井は悦子の脇の下に半紙をはさんだ。

「食事のとき、わきをひろげて食べてはいけません。その紙が落ちないように、腕の下にはさんだまま食べてごらんなさい」

そういう日常生活での上品なたちふるまいや外に見せない度胸が、本番での気品や平常心につながる、と考えていたのである。

「和食は大阪ですね。すき焼きも関西です。神戸牛が有名ですけど、伊勢の松坂牛も西条です。神戸では菊水、大阪ではみやけ。バターとかざらめ砂糖を入れる珍しい方式もありますよ。私は東京ではもっぱら洋食ばかりです。上野精養軒のビーフシチュー、ドイツ料理のラインゴールドもよかですよ。あそこはドイツビールを直輸入しているので、夜は酒場になります。昼間なら連れて行ってあげましょう」

永井は美食家で、超一流のレストランを好んだ。大阪や神戸だけではなく、東京や横浜にもひいきの店があった。

山王ホテルは皇居も各国の大使館も首相官邸陸軍省も外務省も徒歩圏内、市電も走っていた。

最大大手企業のひとつ、満鉄(南満洲鉄道株式会社)の東京支社も近い。満鉄関係者がひんぱんに利用して、長期滞在者もいた、悦子より2歳年長の山口淑子こと李香蘭も、日本での滞在先は山王ホテルだった。

尾崎秀実も常連。リヒャルト・ゾルゲも常連の一人だ。とくにバーは外国人たちの社交場でもあった。

この山王ホテルの周囲では、皇室専用のベンツや首相官邸専用のクライスラーをしょっちゅう往来していた。運転手はたいてい帽子と制服で、曲がるときのスピードがすごい。

円タクよりも車の装備がずっと重たそうだ。鉄板や防弾ガラスがボディを覆い、頑丈になっているこの頃、天皇や政府の高官を狙う未遂テロが何度も起きていた。カーブや門でスピードを落とすと、爆弾をほおりこまれる可能性がある。運転手たちは警察から注意をうけて、警戒を怠らなかった。

悦子もそうした殺伐とした空気をかすかに感じ取っていた。

「みざる、言わざる、聞かざる、ですよ」

永井の言葉に、素直にうなづき、ひたすら練習に励んだ。

 

「今日のように、誰も彼もという時代になろうとは思いませんでしたわ。滑っている人は、どこそこの社長のお嬢さんとか、どこそこの支配人さんというような特定の階級の人々で、スケートの練習に来るというより、一種の社交場」といった感じでした」(雑誌「丸」インタビューより)

 

この頃、陸軍では氷上剣道大会など、演習にスケートも取り入れるようになった。

 というのも、1902年、八甲田山での演習が遭難事故になったとき、ノルウェー国王からお悔やみの言葉と共にスキーの道具が贈呈された。

日露戦争後、オーストリアの軍人テオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐の来日もあって、まず陸軍でスキーの講習や訓練が急速にひろまっていった。

日本はロシアを仮想敵国としていたから、寒中訓練には力を注いでいた。スケートを練習しておくと、同じバランス感覚なので、すぐスキーはできる。自転車部隊にしても同じだ。

当時、麻布の高台にある「歩兵第三連隊兵舎」は、日本最初の本格的鉄筋コンクリートの3階建て、地下1階、切り妻屋根と2つの中庭をもつモダン兵舎に生まれ変わっていた。ここを拠点とするフサン(歩三、麻布第三連隊)は、生きのいい江戸っ子部隊として知られている。

そこへスポーツ好きの秩父宮が配属された。

さっそく特別室が用意された。が、秩父宮は絶対にそこは使わず、送迎の車も拒否。秩父宮邸からそこまでおよそ2キロ、時間どおり徒歩で歩く。

士官候補生の森田利八や安藤輝三には目をかけ、自邸に招いてローラースケートをしたりもした。秩父宮は安藤にはスキー一式を譲り、東北のスキー旅行にも誘っている。

山王ホテルで軍服を見かけるのは珍しいことではなかった。

ロシアでもドイツでも陸軍とスケートは縁が深い。軍に所属したままオリンピックでメダルに輝いた選手は過去に何人もいる。

 4回転ジャンプの天才、エフガニー・プルシェンコにしても、ロシア連邦軍の上級中尉だ。国会議員に当選した後、予備役になった。

 

「戦争中も東北のほうで陸軍のスキーやスケート大会はつづいていましたからね。秩父宮殿下や高松宮殿下はご夫婦でフィギュアスケートを楽しまれていました。西園寺公望公爵の息子さんやお孫さんも、よく一緒にいらっしゃっていました。(西園寺)公共さんと秩父宮殿下はイギリスのオクスフォード大学に留学しているとき、コンパルソリを習ったそうで、とてもお上手でした。

それとこれも戦前は口外してはいけないことでしたが、今はもう問題ないでしょう。

山王ホテルは歩三やキンポ(近衛歩兵)がとても近かったの。

なので兵隊さんもよくスケートに来ていました。赤マントで有名な中橋基明さん。この方はお母さまが華族だったはずで、お友だちとよく滑ってらっしゃいました。226事件で死刑になったときは、もうなんていっていいのか、わからなくて・・・。言葉がありません。当時キンポといったら各地方から選ばれた兵士ばかりで、それはもう大変な名誉だったから、帽子の色も他とは色が違っていてね。軍人さんのブロマイドなんてのも売っていたし、新聞や雑誌にも顔写真入りで記事や物語が載ったりして、若者にとって憧れの存在だったんですよ。

個人だけではなく、陸軍は朝早く営業時間前、山王のスケート場でときどき貸切演習していました。ともかく絶対に外で話題にしたり、書いたりすることは許されない風潮でしたの。先生からも親からもこれは固く注意されていましたからね。秩父宮殿下が指導教官だったときは、スケート靴を履いて剣道をトアーとやったり、柔道をしたり、いろいろな練習をされていましたよ」(稲田悦子談)