稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第6章 チャプリン来日

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「えっちゃん、チャプリンが来るんやて。港まで見に行かん?」

小学校では同級生たちが大騒ぎしていた

「すごい!本物?あかんねん。うちスケートの振り付けがあるから、ちょっと東京まで行かなならん」

喜劇王、チャーリー・チャプリンの映画は、日本でも大ヒットした。最初はは配給会社の命名で、「変凹(ヘンペコ)くん」とか「よいどれくん」で公開されていた。が、すぐにチャプリンの名前で親しまれるようになった。

代表作の「モダンタイムス」や「スケート」で、チャプリンの高いスケート技術を披露している。母国イギリスでの下積み時代、カーノー劇団では、パントマイムやダンスはもちろん、ローラースケートもかなり舞台でやった。

さっそく日本でローラースケートが大流行したことは言うまでもない。

悦子も買ってもらった。

やや勝手が違う。

夏の間、どうしてもアイススケート場に行けない期間、ローラースケートで練習した。

チャプリンの映画を見ると、社交ダンス同様、スケートも上流階級に浸透している。着飾った男女たちの社交場として、たびたびスケートパーティーが催された。

 

チャプリンヒトラーは同じ年に、それぞれイギリスとオーストリアに生まれた。誕生日も数日しか違わない。どちらもチョビ髭がトレードマークだ。大衆にそれぞれ「親しみ」、「威厳」というインパクトを与え、世界にその名前を轟かせた。

1932年5月14日、そのチャプリンがマネージャーの兄シドニー、秘書の高野虎一と共に初来日。

神戸港では検疫中に新聞記者たちをのせた船が横杖され、港では数千人のファンが出迎えた。チャプリン一行が三宮発を変更して神戸発の「燕」号に乗り込むと、ここでもファンが殺到してしまう。駅長駅に一時避難しなくてはならなかったほどだ。

チャプリンの運転手兼秘書になった高野は、広島出身。15歳でロサンゼルスに移民した。

来日前に立ち寄ったシンガポールの歓迎会で、高野は軍に近い筋の人間から、幾つかの情報を耳打ちされていた。

日本の軍関係者にもチャプリンに会いたがるファンが多く、ハリウッドにあるチャプリン撮影所には、東京裁判松井石根と一緒の写真が残っている。

事実、5.15事件の首謀者たちは首相官邸において、チャップリン歓迎会が予定されていると聞きつけ、そこに集まる支配階級を襲撃する計画を練っていた。

高野は不穏な空気を感じとり、はらはら気持ちがおちつかない。チャプリンと兄のシドニーに、東京駅から帝国ホテルに向かう途中、

「車からおりて皇居の方角にむかって拝礼してほしいのです」

と頼みこんだ。過激な国粋主義者たちの心情を懐柔したい、と考えたためだ。

当のチャプリンにはわけがわからない。

「高野は頭がおかしくなったのだろうか?」

と首をひねりながら、兄と一緒にただ言われるがまま、頭を下げてみた。

天気のいい日曜日だった。

万事に気まぐれなチャプリンは、その日の思いつきで相撲観戦することになった。

ちょうど夜の歓迎会に出席する予定だった秩父宮は、友人たちと野球の試合に興じ、神宮でサードを守っていた。

相撲観戦には犬養毅首相の息子で、秘書官の犬養健たける)もチャプリンに付き添った。終わって帝国ホテルに戻った頃、首相官邸では大変な騒ぎになっていた。

まだ完成してまもない首相官邸は、テロを警戒して廊下は細く、迷路のように入りくんでいる。ところが、襲撃した海軍の青年将校たちは、3つのドアを警護していた私服の警官たちを次々とピストルで撃った。

犬養首相とは食堂への通路で遭遇した。娘婿の仲子や孫と一緒だった。すぐに引き金を引いた。が、弾が切れていて、かちゃかちゃと音をたてるのみ。

「撃つのはいつでも撃てるだろう。あっちへ行って話をきこう。ついてこい」

と犬養首相自らが応接間に招きいれた。孫から引き離したいという気持ちも働いたのだろう。そこへ殺気立った後続の4人が走りこんできて、

「問答無用!撃て!」

という声で、次々と9発を発砲した。

犬養首相は仲子から止血の応急処置を受け、かけつけた医者の治療を受けながら、

「呼んでこい。いまの若いもん、話してきかせてやることがある」

と言い続けた。

撃たれたのが夕方5時半、午後11時26分に犬養首相の顔に白い布がかけられた。

チャプリンは半月ほど日本に滞在し、急きょ首相に就任した斎藤実と面会した。

6月4日に日本を出発するまでの間、チャプリンは帝国ホテルに宿泊しながら、何度かお忍びで山王ホテルに足を運び、プールやサウナやスケートを楽しんでいた。

山王ホテルは時代の先端をいくモダンな宿泊施設として、この秋、正式にオープンする運びだった。地下にスケート場が作られ、サウナやプール、まだ珍しかったマッサージ店もできた。

本館は洋風の鉄筋コンクリート作りで、併設された日本館と日本庭園も見事な出来ばえで、食堂にはシャンデリアが並び、出窓にしてもカーテンにしても家具にしても、高級品ばかりが集められた。ただし、まだ家具がそろっていなかったので、宿泊以外の施設、スケート場やそれを取り囲むバルコニーの喫茶室などがプレオープンしていた。

山王スケート場はよそと違って、50銭を払えば誰でも滑れるわけではなかった。あくまで皇室や華族、政府の高官、ごく限定されたオリンピック候補の選手たちだけが特別に滑ることができた。すでに正式オープンに先立って、交野政邁伯爵が発起人となり、「東京スケート倶楽部」が創立されていた。

帝国ホテルの筆頭株主宮内庁だったのに対し、山王ホテルは民間企業の第一自動車の経営だったので、何かと融通がきいた。

たとえば、帝国ホテルはもともと国賓華族のために作られた。民間の日本人男性が女性と一緒に同じ部屋に宿泊することが許されず、外国人男性だけが許されていた。もちろんホテル内で軽装は許されず、何かと規則が厳しかったのだ。

たまたま悦子が永井先生と、五輪を経験している老谷たちと一緒に山王スケート場にいた。ロシアから亡命したバレエ教師の知恵を借りながら、振り付けをしている最中だった。

午前中だった。くるくるとカールした銀色の髪の白人が来て、小走りでぴょんと氷にのり、独創的に滑りはじめた。付き添いは5人ほど、一人だけ白人で顔がよく似ていて、兄弟のようだ。

悦子がプログラムを振り付けしてもらっている間、じーっと見ていて、すぐその後にマネして滑ったりしていた。子供が好きみたい。何度かウィンクしてくれた。

悦子たちは映画でしか知らなかったから、そのときはチャプリンだとは気がつかなかった。次の日になってリンクの山下支配人から、

「昨日、チャプリンが来たでしょ」

と言われて、はじめて知ったのだった。

東京音頭」が大流行する一方で、陸軍が「非常時宣言」して吠えた。何からなにまで我慢を強いる。谷崎潤一郎の連載小説「細雪」も禁止。新歌舞伎座で上演予定の「源氏物語」に待ったがかかる。

「非常時日本にふさわしくない」という理由だった。

警視庁保安課が1930年には「エロ演芸取締規則」を通達し、ズロースの長さが股下三分(約20センチ)より短かったり、肌色をしているものは着用禁止。腰をふったり、触れたりするような動作は絶対に許さないという、厳しい内容のものだった。

悦子は大阪スケート倶楽部ではシングル競技だけではなく、平行してペア競技もオリンピック向けて練習していた。だが、東京では警察から禁止されてしまった。

山王スケート場の小林進インストラクターは、

「オリンピック競技ですよ。浅草演芸とは一緒にしないでください」

とじだんだを踏んで悔しがったが、悦子自身は「こういう雰囲気ではしかたないのかも」と割り切って、あきらめていた。

ただし、ペア競技の練習は東京以外の場所ではつづけて、アイスショーでは何度も披露している。

すでに公立学校には陸軍現役将校が配属され、軍事講話、戦史、軍事教練の授業があった。いわゆる軍事教育の下で、「軍人さんの言うことは正しい」という思想が浸透しつつあった。

五一五事件では嘆願書が何千通も届いた。犬養首相と護衛の警官が一人死亡したにもかかわらず、最高刑が懲役15年と軽いものですんだ。

翌年に日本は国際連盟を脱退。国定教科書が改訂になり、

「サイタサイタ サクラガサイタ」

「ススメススメ ヘイタイススメ」

という一節が、小学校1年生の国語のスタートになった。