稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第5章 スクール・フィギュア

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「朝からスケートをやる。戸外で食事をして愉快になり、滑りそこねて、水中に落ちた」

と書いたのは、ドイツの詩人、28歳のゲーテだった。

日本では明治になってすぐゲーテの名が紹介された。たちまち「若きウェルテルの悩み」がブームになり、島崎藤村尾崎紅葉堀辰雄らに大きな影響を与えたものだ。

悦子の毎日は文学ではなく、スケート一色だ。

スケートをはじめて2年目、永井からスクール・フィギュア(規定)を習いはじめた。

オリンピックのような国際試合になると、規定演技が6割、自由演技が4割、この2つを足した合計得点で順位が決まる。

規定の課題は「アウトロッカー」「アウトカウンター」「スリー・チェンジ・スリー」「ブラケット・チェンジ・ブラケット」「バックループ・チェンジ・ループ」「ダブルスリー・チェンジ・ダブルスリー」という、6つの図形だった。つまり、課題が6種類。旧式な採点方法だと6.0が満点だったのは、この名残であった。この旧採点方法は、二〇〇二年のソルトレイク五輪までつづいた

フィギュアという英語はもともと「図形」を意味している。

永井自身、指導者というよりも、悦子と一緒に試してみるしかない。

あーでもない、こーでもないと、想像に頼りながら滑る。2人して何度も転ぶ。

たとえば、永井が翻訳した米国の指導者、ガスタープ・ルッシューの指導書には、

「身を丸くして柔らかく倒れるのがいい」

と書いてある。

柔らかくも何もあったものではなかった。

半回転ジャンプするつもりで、いつのまにかステンと転んでいる。

「滑っては転びを何回か繰り返しているうちに、しだいに氷上にいるのが楽になってくる」

という一文もあった。

まだ身長1メートル10センチだった悦子は、転ぶことを恐れなかった。子供のほうが腰の位置が低いから、打撲しても衝撃が少ない。

遅くとも7歳までにスケートをはじめたほうがいい。

そんなことは現在では定説で、どの指導者も熟知している。

当時はそんな情報も知識もなかった。永井と悦子は真っ暗闇で手さぐりするようにしながら、ひとつひとつのスキルを学んでいく。

 

永井先生はご自分では滑りませんでしたが、熱心な研究者で、テストケースとして、ご自身研究しながら、私をみちびいてくれました。しかし、結局は、根気よく毎日毎日同じことを繰り返すことですわ。選挙の時の候補者諸公のようにキチガイになってね。しかし、もちろん子供の私には、とてもオリンピックに行けるとは思ってもいなかったわ」(雑誌「丸」インタビュー記事)

 

6種類の図形と並行して、5分間の自由演技も滑り込んでいく。

これにはワルツステップ、サルコー、フリップ、ルッツといったジャンプやシットスピンやスクラッチスピンを盛りこむ。

シットスピンでくるくる回れるようになったとき、イーグルで足がきれいに開くようになったとき、悦子はどんどん自由な空間が広がっていくのを感じた。

社会の常識にも、家柄にも、財産にも、何ものにも縛られない自由で純真な心。

心から滑ることを楽しむ開放感。

思い切り飛んだり、家族してスピンしたい気持ち。

それがスケートの基本軸にある“自由”だった。

自由演技は今でいうフリーだから、音楽も選ばなくてはいけない。時間は男子は5分、女子は4分。

稲田悦子親子はチャプリンの映画が好きだった。

永井は当初、ああいうコミカルなパントマイムを入れたものを悦子に考えていた。

ところが、他の男子選手がチャプリンふうのプログラムを作っていたので、悦子には他にもっとリリックな曲で作ることにした。とはいえ、そう選択枝がたくさんあるわけではなかった。

この頃のスポーツ雑誌や指導書には、

「自由演技の音楽や構成をしょっちゅう変えるのは望ましくないこと」

と記されていて、同じ曲ばかりを5年も6年も滑るのが常識とされていたのだ。

だいたい音楽を選ぶといっても、CDプレーヤーはもちろんカセットテープですらない時代である。

曲を簡単に切ったり貼ったりすることもできなかったし、編集するのも容易なことではなかった。

レコードも出回りはじめていた。が、試合ではたいてい楽団の生演奏だったので、譜面を用意する必要があったのだ。