稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第4章 大阪歌舞伎座ビル

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大阪難波新地に7階建て、地下2階の歌舞伎座劇場ビルの完成は、ABCリンクがある大阪朝日ビルより少し遅れた。

正面玄関にはこれまで見たことがないほど巨大な丸窓、玄関ホールにはこれもまた巨大なシャンデリアがぶら下がっていた。単なる照明というよりも、きらきらと人々の頭上で瞬く精巧なガラス工芸品、まるで王冠か何かのようだ。

「おかあさーん、あれあれ!」

「あれまー、こりゃたまげたの」

道行く人々がおもわず足をとめて、見とれてしまう。誰も彼も文明の最先端をいくド派手さに圧倒されてしまった。

さっそく盛大なこけら落としを催された。

中村鴈治郎の人気も相まって、こけら落としはたちまち売り切れ。

劇場は1階から4階を占めた。東京よりも切符は手に入りやすく、客席も見やすい、という評判がたった。

芝居がない日も、屋上庭園、スポーツランド、観覧席、休憩室、美容室が軒を並べていたから、人の波はとぎれそうにない。

半年遅れてスケート場も営業を開始した。

これがまた、なんと5階と6階にサブリンクとメインリンクの2つができて、メインのほうは50平方メートルという広さ。ABCリンクは20平方メートルほどの広さだった。さっそく悦子や佐藤節たちは、ここでも練習するようになった。

スケート場にも天井からいくつもシャンデリアがぶらさがっていた。大人の社交場としての高級感を漂わせている。

悦子は精華小学校には午前中だけ通い、昼すぎから毎日6時間ぐらい滑った。

「親の頭がおかしいんじゃないか」

という声もあった。

ところが、光三郎もハツもガンとしてはねのけた。

自分たちは優雅な貴族階級とは違う。

ハツは家業と家事に追われていた。悦子が一人でスケート遊びをしてくれるのは助かった。

「他人様が飯を食わせてくれるわけでもなし」

とあくまで悦子の味方で、好きにやらせてくれた。病気がちだった娘が丈夫になっていくのはうれしかった。

何にせよ、毎日つづけるというのは、すばらしい。

光次郎が見に行くたびに、悦子はまるで何かが憑依したかのようなスピードでぐんぐん上達していた。悦子が滑りはじめると、周囲の大人たちもぎょっと驚き、そのまま見とれてしまう。

今はもうすっかりABCリンクでも、歌舞伎座のリンクでも顔となった。

折も折、レイクプレシット五輪で惜敗した老松と帯谷が中心となり、悦子たちが知らないところで、

「次のオリンピックまでに何人か新人を発掘し、育成していこう」

という熱意がすでに盛り上がりつつあった。

というのも、日本は日英同盟に基づいて第一次世界大戦に参戦した。ところが、国土は戦火に見舞われなかった。独立戦争を終えたアメリカも、ヨーロッパの戦争とは距離をおいていた。

第一次世界大戦では繁栄を極めていたヨーロッパにおいて、至るところが戦場となった。さらに、フランス、イタリアで蚕の病気が大流行するなど、軍事産業以外の分野では壊滅的な打撃を受けていた。

坂の上の雲」でも秋山真之が渡英した際、イギリス人たちから、

「日本人は生糸を売って、イギリスから軍艦を買えばいい」

と嘲笑される場面がある。

日本の主力輸出産業は生糸工業で、10代の娘たちもせっせと働いた。

そのうえ軍需品の注文は殺到し。綿や絹やメリヤスといった貿易も、かつて例を見ないほど活性化した。

いわゆる大正の戦争景気である。工業や生産力は増大し、一代で莫大な富を築きあげた人物も少なくはなかった。

足元が暗くて靴が見えません、という女給にたいし、お札を燃やして足もとを照らす和田邦坊の風刺画が流行した。

 

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一例をあげておこう。バイオリニストの貴志康一は、メリヤス業で成功した商家の息子だ。大阪吹田市で生まれ、芦屋で育つ。高校を中退してヨーロッパに留学していた1929年、1710年製のストラディヴァリスをドイツのヘルマン商会で購入してシベリア鉄道経由で帰国したことが各新聞で記事になった。

価格は6万円で、5千円の保険をつけたので、合計6万5千円。千円もあれば一戸建てが建ったのだから、現在の数億円に匹敵するはずだ。

すでに明治の終わりに、三越デパートが少年音楽隊、白木屋が少女音楽隊といった具合に、ミニオーケストラのような楽団が誕生している。

文化の仕掛け人は主に、新聞社とホテルとデパート。この3つの業界が競争のように講演や試合を企画し、出資していた。

この頃、東日本では冷害と凶作で娘の身売りが急増し、食事を満足にとれない「欠食児童」という言葉が流行していた。

同じ日本、同じ日本人とは思えないほど、貧富の差が広がってしまった。

 

「意外かもしれませんが、音楽会もほとんど毎週、どこかで開催されていて、とても人が集まったんですよ。デパートやホテルがどんどん新しく建っていて、今でいうカルチャー講座みたいなものかしら。イベントや講演も競争のように開催されて、無料コンサートもあれば、海外から有名な音楽家を呼ぶ有料なものもありました。アイスショーも試合以外だと、オーケストラの演奏付のほうが多かったような気がします。蓄音機はもう出回っていたけれど、今みたいに音がよくなかったから、生の音楽はとても人気がありました。

 近衛秀麿さんのオーケストラとか、山田耕筰さん、貴志さん、諏訪根自子さんのバイオリンは有名で、何度かご一緒させていただきました」(稲田悦子談)

 

朝日新聞社が年に何回か、自営のABCリンクに老松や帯谷を指導者として招聘するようになった。

彼らと交流を深めた永井康三は、いつも朝日リンクで滑っている少女を思い浮かべた。

「いつも来ているあの子は、何歳なんだろう・・・」

永井はスケート経験がない。選手ではなく、スケート愛好家兼スケート研究家を自負していた。

もともと永井は資産家の子息で、ヨーロッパに絵の修業をするため留学しに行ったのに、スケートのことばかりを覚えて帰ってきた変わり者だった。まだ和服が多かったのに、永井はたいていツイードのジャケットに蝶ネクタイ、ニッカボッカーを着て、超一流のレストランで食事をする。それがよく似合う。

西日本では東京帝国大学の川久保子朗がスケートの普及に尽力したのに対し、関西ではこの永井康三の功績によるものが大きかった。さっそく悦子の父親に、

「指導させてください」

と申し出たところ、両親は感謝して月30円を払う約束をしてくれた。永井自身、

「私もまだ経験が不足していますから、月謝なんていりませんよ」

と言ったものの、30円といえば当時の6、7千円に当たり、助かったのは事実だった。もっとも永井はそのお金で海外からスケートの専門書を取り寄せるなど、ほとんどすべてをスケートにつぎ込んでしまう。

そうした大人どうしのやりとりを悦子は、

「そのときの先生の喜びようは、今でもよう覚えております」

と後年さっぱりとした口調で語った。

いかにも浪花の商人育ちらしい。闊達な風が、すっと走り抜けていった。