稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第3章 米国レイクプラシット五輪

1932年3月1日、傀儡国家ながら、満洲国建設宣言。新首都と決めた長春を新京と改名、年号は大同とし、漢、満、蒙、鮮、日の5族協和をあらわす五色旗がひるがえった。「満洲男」や「満子」という名前のつけた親が多かった。世界的な指揮者、小澤征爾にしても、板垣征四郎石原莞爾2人にちなんだ命名だった。


同年、12月16日、東京・日本橋白木屋デパート4階オモチャ売場から火事がでて、死者14名、負傷67をだした。店員の死亡者13人は女性ばかりで、脱出ロープにすがって、和服の乱れを気にして、転落死した者が多かった。


これ以後は和服でも下着を着用する習慣が定着し、洋装が広まる。

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悦子の小学校では3年生になると、裁縫の授業で1年生のためのズロースを縫うようになった。
同年、米国のレイクプラシットで氷上オリンピックが開催され、日本からはじめてフィギュアスケート選手の老松一吉と帯谷龍一が送り込まれた。2人ともそれぞれ前年度の全日本1位、2位である。
大阪本社4階の会館でも、レイクプラシット五輪のビデオ試写会を催し、帰国した選手たちによる凱旋公演も行われた。
競技初日の2月8日は、6種類の課題をこなすスクール(規定)が行われ、8か国12選手がこれに挑んだ。
優勝候補はスウェーデン代表、ギリス・グレイフストレームとオーストリア代表、カール・シェーファーの2人。グレイフストレームは左膝の関節を痛めたばかりで、精彩にかけ、2位につけた。規定の1位はシェーファー、老松は10位、帯谷は11位だった。
翌9日が自由演技で、得点の比率は規定のほうが6分4分で高かった。
ここでもシェーファーが圧倒的な安定感で、オリンピック初優勝を飾ったのである。
グレイフストレームは2位で、老松は9位、帯谷は最下位に沈んでしまった。
日本人はまだ男子だけの参加だったが、女子フィギュアスケートは7か国15選手がエントリーしていた。
いちばん人気はノルウェー代表の19歳、ソニア・ヘニーだった。
11歳でシャモレー五輪に初出場したときは最下位の8位。
2度めに出場したサンモリッツ五輪では、規定もフリーも圧倒的な強さで1位。15歳10ヶ月で完全優勝を飾り、この最年少優勝記録は1998年の長野五輪でタラ・リピンスキーまで破られなかった。

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このレイクプラシット五輪では、ヘニーも15歳。やや大人びて体型も女性らしく変貌しつつあったが、愛らしい笑顔は健在だった。
テニス選手ですら、足首がやっと見えるぐらいの長さのロングスカートを履いている時代、ヘニーだけが膝上のミニスカートをはいて、溌剌とした動きでチャイコフスキーの「白鳥の湖」を滑った。バレエのような動きの足さばきを披露し、満員の観衆をとりこにした。
スピンをまわると、短いスカートがふわふわと浮き上がり、ブルマー、太もも、膝、足首まで惜しげもなく人目にさらされた。
ワルツステップやアクセルジャンプのように、前に足を蹴りだすときスカートの裾が長いと、布がまとわりついて邪魔になる。
胸をぐっとあけて、体の線がはっきりとわかるコスチュームを着るのは、鍛え上げた身体の線と姿勢の美しさを審判にアピールするためだ。色気をふりまくのが本来の目的ではない。
少し前かがみで、ひじが曲がってしまうのがヘニーの癖だ。が、その分スピードはあったし、アクセルについで難しいとされるルッツジャンプも高くふわっと真上に飛ぶ。体重を感じさせない天上の美が神々しかった。ただし、すべてジャンプは1回転だ。
圧倒的な強さで、ヘニーが2連覇した。
2位はオーストリア代表のフリーツィ・ブルガーが二大会連続2位。彼女は4年後、日本人と結婚する。
3位にはアメリカ代表のマリベル・ビンソンが食い込んだ。
光次郎は谷崎潤一郎の小説が好きで、大阪朝日新聞を購読していたから、ソニア・ヘニーの名前と写真だけは知っていた。まさか4年後、そのソニアと悦子がオリンピックという舞台で競いあうことになるとは・・・・。この頃はまったく実感していなかった。
このビデオ上映会には、歌人山口誓子もたまたま参加していて、フィギュアスケートとうものをはじめて知った。東京帝国大学法学部を卒業した後、住友合弁会社に入社し、ここから近い中洲のビルで勤務していた。
退社後はほぼ毎晩、11階のABCリンクに出向くようになり、すっかりスケート場の常連となってしまった。
5歳のとき母が自殺した誓子は、樺太の大泊(コルサコフ)で「樺太日日新聞」を発刊した祖父に育てられた。
雪や氷には親しんでいたし、犬ぞりやスキーやスピードスケートは知っていた。が、氷上に図形を描くフィギュアスケートという競技は、ビデオ上映会を見るまでは知らなかった。
テニスや野球と違って、他と競いあわなくていいスポーツは、有難かった。常連には歌人の田中武彦や株式取引場の支配人や百貨店の売り子ら顔見知りも多かった。

 スケート場四方に大阪市を望む    山口誓子

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もっともスケートの句を詠んだのは、誓子が最初ではなかった。
ホトトギス」から離反した秋桜子主宰の「馬酔木」でも、1932年、ちょうどレイクプレシッド五輪の前後、3月号に次の句が載っている。

朝日ビル、アイススケート場風景

スケートや屋上にして流行りけり 焼山
スケートや屋上ジャズに暮れてゆく (同) 
 
まだ表現は凡庸かもしれない。が、スケート場が屋上があり、場内にジャズが流れていた。そのなんとも新鮮な驚きと喜びが伝わってくる。
偶然この山口誓子と大学で同窓だったのが、大阪朝日新聞社の尾崎秀実記者だった。
ちょうど上海支社から帰国したばかりで、外信部に配属されたばかり。偶然は重なるもので、尾崎の兄が山口を同じ会社で働いていた。
尾崎はドイツ語と英語と中国語ができたので、海外から配信されるニュースを翻訳したり、時差があるので交代で夜勤をしたり、大阪では社にいる時間が長かった。ときどき屋上にあがってきて、鳩の機嫌をとったり、スケートを見学して記事にしたり、誓子と雑談したりしていた。
しかし、尾崎秀実といえば、後に巣鴨で刑場の露を消えてしまう。

「そうなんですよ。お気の毒なことに、尾崎さんは、“ゾルゲ尾崎事件”で、死刑になってしまったの。目が細くて、いつもニコニコされて、象みたいなやさしい顔だちの方でね。まさかソ連のスパイだなんて、誰も知らなかったと思うのよ。とてもフレンドリーで親切な新聞記者だったから、お友だちもとても多くて。たしか私のことをいちばん最初に記事にしてくれた人でした。
とても美食家の方だったから、永井先生とおいしいものを食べてにいったりね。ドイツ語や英語や中国語ができたから、ベーブ・ルースやフリーツィ・ブルガーが来日されたときは、通訳もされていました。すごく子供好きな方で、自分の娘もスケートに連れてこようかな、とよく話していました。でも、尾崎さんの奥様が反対されたそうです。犬養毅総理大臣の孫娘(犬養道子)と仲が良くて、一緒にピアノを習いにいっているから、スケートは絶対にダメと言われたおそうです。
ただし、私が子供だったせいか、周囲の大人は逮捕とか、死刑とか、ずっと内緒にしていて、教えてくれていなかったんです。大人になってから、はじめて知って、ものすごく驚いたんですよ。
」(稲田悦子談)