稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第2章 大阪朝日新聞ビル

悦子自身、フィギュアスケートと出会ったのは、小学校2年生のとき。きっかけは大阪朝日新聞が建設した自社ビルだった。

もともと大阪ではライバル、大阪朝日新聞がスポーツに目をつけ、いれこんでいた。

大阪で1879年に創刊された朝日新聞は、4ページ、定価1部1銭、1カ月18銭、従業員約20人、1~4号は3000部印刷というスタートだった。

わずか4年で発行部数を2万1461部に伸ばし、夏目漱石石川啄木らも社員として名を連ねたものだ.

すでに日露戦争の頃から大阪湾を利用して、長距離水泳大会や市内のマラソン大会を開催。これが大当たりして、新聞の発行部数を伸ばした。

全国高校野球の前身、第1回全国中等学校優勝野球大会は、1915年8月18日から8月23日まで開催。野球場はまだなかったため、大阪府豊中グラウンドで、朝日新聞の社長、村山龍平が始球式のマウンドに立った。京都二中が優勝を飾る。

しだいにこれは人気を呼び、観客が列をつくるようになった。

これに対し、毎日新聞は「大毎野球団」を結成させた。東京巨人軍ができるより10年も早い。彼らは朝鮮や満州まで派遣されて、巡業している。

もちろん大阪朝日も負けてはいられない。

 

大阪朝日新聞社はすでに鳴尾球場という総合スタジアムを所有していた阪神電鉄に、

「もっと大きな本格的な野球専門のスタジアムを作りましょう」

と働きかけ、できたのが甲子園球場のはじまりだ。

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その大阪朝日ビルを新社屋を完成させたのが、1931年。

大阪朝日ビルは大きな船というコンセプトだった。その景観は銀と玻璃との諧調燐然として、そそり立つ。夕闇がせまると、屋上の航空標識塔が、赤、緑、白という三色が三千ワットの大光芒が放ちだす。

日本最初の試みが随所でほどこされ、関西全体に偉彩と活気をもたらす。文化や伝統や流行の発信拠点となった。

4階には市民ホールがはいり、10階には「アラスカ食堂」と「本みやけの和食堂」。

それぞれヴァイプライトで照らす植え込みや、旧上方情調たっぷりの数寄屋造りで、高級感をだした。

なんといっても注目を集めたのは、11階の屋上露台にテントを張り、130坪のABCリンクというスケート場をつくった点である。

当時はまだ伝書鳩たちが軍でも新聞社でも大活躍していた。

それゆえ新聞社の屋上といえばたいてい鳩小屋があった。大阪朝日では元陸軍の精鋭が雇われ、鳩の育成には力を入れていた。

甲子園大会がはじまると、原稿やイラストを運ぶために何往復もしたものだ。

 

屋内スケート場自体はABCリンクがはじめではない。日本初は19254年7月、大阪市港区夕凪の大阪市岡パラダイス内の「北極館」だった。ただし、まだ自然冷媒(アンモニア)の機械が旧式だったので、かなり匂いが鼻についた。

すでにドイツの技術者カール・フォン・リンデが1873年には、ビール製造のために24時間に6トンもの製氷をおこなう冷凍機を開発していた。

1877年にはマンチェスターで人工氷のスケート場が開業。人工氷、製氷業は一大産業になり、進歩を重ねてきたのだ。

こけら落としアイスショーが開催されると大宣伝されていて、稲田光次郎はさっそく朝日ビルの見物がてら、着飾った3人娘をつれて見に行った。

「なんなんだ、これは?」

と、光次郎にとって興奮の連続だった。

こんなにもダイナミックはスピードと色どり溢れた華麗なスポーツがこの世にあったのか。看板にしても、雑誌の表紙にしても、着るものにしても、まだ赤やピンクのような派手な色は少なく、光るものが珍しい時代だった。

 このとき滑っていたのは大阪スケート倶楽部の有志たち。日本人ばかりだった。が、まぶしいぐらい健康美にあふれ、どこか西洋文化の香りがした。

すでに阪急電鉄創始者小林一三宝塚歌劇を創立。関西圏だけではなく、全国各地で巡業し、歌劇だけはなく、アイスショーも主催していた。

 

「一回10銭で滑ることができて、姉が2人いて、最初は一緒にスケートしていたんだけど、そのうち飽きてしまい、つづいたのは私だけでした」(稲田悦子談)姉たちははじめて見たアイスショーの美しさをよく覚えていると話していました。でも、私は小さかったせいか、残念ながらほとんど覚えていないんですのよ。もの心ついたら、毎日スケート靴をはいて、滑っていたという記憶しかないのです。アイスショーなんて気がついたら、自分がもう主役級で滑っていたわけですし、もう今までに何百回も経験していますからね。スケートは見るものではなく、あくまで自分にとっては滑るものだったんです。」(稲田悦子談)

 

アイスショーを見た翌日、父は娘たちの手をとり、スケート場で滑りはじめた。

外国人もいた。まだ珍しかった洋装の男女もいた。貸靴だけではなく。ラムネや軽食の売店も立ち並ぶ。

それまで悦子は気管支系が弱く病気がちだったので、

「体を丈夫にしたい」

という口実もあった。

屋内スケート場だけではなく、六甲山の上のほうでも、池や川が凍ると出店が並んで、休日はにぎわった。

もっともゴルフやテニス同様、スケートも大人の社交場とみなされていた。光次郎と一緒に滑っていても、悦子だけが飛びぬけて小さかった。

最初は父親や姉たちと行くことが多かった。だが、じきに悦子は一人で行くようになり、これがまた否が応にも人目をひいた。

学校が終わると、家に飛んで帰り、新聞社の重たい扉をあけて、トコトコ歩いて受付の前をとおり、エレベーターに乗って11階を押す。

まわりは大人ばかりで、身長1メートルそこそこの少女はまわりに誰もいない。一人で練習して、自分でラムネを買って喉をうるわす。

とくにABCリンクの場合は練習の場というより、ハイソサエティな階級の社交場という雰囲気のほうが近かった。子供たちを連れて、親と脇あいあいと滑る光景はまだまだ珍しく、日曜日に限られていた。

ましてや童女といってもいい悦子が一人でスケート場に来るなんて、常識はずれ、言語道断に近かった。

男女同席などとんでもない時代、今のようにデートだのカップルだの、許される風潮ではなかった。明治の「学級編成等ニ関スル規則」に基づいて、尋常小学校も3年生からは男女別学と厳格に決められていた。

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 スケート場でも良家の子女ともなれば、あずき色の着物を着て、太い帯をしめた「ねえや」と呼ばれるお供が付き添い、悪い虫がつかないように氷の隅でじっと見守っている。    

仁義みたいなものがあり、新顔は中央ではなく、片隅で滑らなくては、

「おい、ちび!じゃまするな!」

と叱られたりした。

「うちのお嬢様の前を通るなんて失礼じゃないの!」

 と説教されたりもした。 (つづく)

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