稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

第1章 1924年 大阪

関東大震災の翌年、1924年2月8日、悦子は大阪で生まれた。
3人姉妹の末娘。
大正13年は十干十二支の最初の組み合わせに当たる甲子年(きのえねとし)で、60年に一度の縁起がいい年でもある。

関西だったので、地震の被害はなかった。むしろ復興景気のあおりを受けて大繁盛した。

稲田の家業は北区天神橋の貴金属商であった。

 

「私の両親はモガ(モダンガール)とモボ(モダンボーイ)だったんだと思います。戦争で焼けてしまったから写真はほとんど残っていませんが、山高帽子、ロイド眼鏡、細いステッキを身に着けた父と釣り鐘みたいな形をした帽子をかぶった母が短いボブカットで、2人一緒にうつった写真を見た記憶があります。フランソワ・コティの香水が2人とも好きだね。子供たちはさわっていけないと言われたけど、ついつい使ってしまい、匂いでばれて怒られてしまったりね。こっそり盗んで、どぼどぼ香水をつけて気分が悪くなってしまった女中さんもいました」(稲田悦子談)

 

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大阪では「天神さま」と呼ばれ、親しまれている天満宮。そこにつながる目ぬき通りは、祭りや初詣帰りの客でいつもにぎわう。
最新流行の華やかな服装や髪形が、道ゆく人々の目を楽しませてくれた。
 
その一角にある「稲田時計店」では時計だけではなく、装身具も扱い、手広く卸しも行う。住み込みの商人や女中が大勢いた。

 

長じてからも悦子は、天満宮の札をいつもスケート靴に忍ばせた。
火薬の匂いが漂う異国にあったときも、故郷の空に思いを馳せ、天神さまに願をかけた。

母のハツは稲田家の長女として育ち、妹しかいなかった。なので、稲田家ではハツに養子をとり、跡をつがせていた。父の光次郎は新しいもの好き。しかも多趣味だった。

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悦子が生まれてまもなく、ラジオ放送がはじまった。受信機は鉱石式のものが10円、真空管式が120円した時代だ。

「ラジオを買ったから、配達人がじき来るよ」
「あら、お父さん、そんな高価なものをほんまに?」
ハツは相談がなかったことに腹をたてたものの、じきに家族みんな夢中になった。

 

ラジオ放送は毎朝午前8時半から君が代の演奏ではじまる。
東京のニュースやラジオ劇や落語。
山田耕筰近衛秀麿のオーケストラや長唄など、夜は9時40分頃の終焉まで、内容は盛りだくさんだった。

 

「私が生まれた前年に、関東大震災があったそうなの。でも、まだ小さかったので、ほとんど知りません。震災のせいで東京から有名な作家の谷崎潤一郎さん一家が船で引っ越ししてきたり、たくさんお金もちが移ってきました。大阪の商人はにぎわっていたようです。

あの頃は今みたいに報道も発達していませんでした。だから、東北の農村では凶作がつづいて、娘を売るほど苦しんでいるなんて、ずっと後になるまで知らなかったのです。テレビも何もない時代でしたから。ずっと後になって山王スケート場で一緒に練習するようになったから、このあたりも関東大震災では被災したという話をよく耳にしました。スケート仲間の東郷いせさん、ちょうど震災の1週間前に聖路加病院で生まれて、大変だったそうです。いせさん、スケートもドイツで習っていたから上手でしたよ。お父様が東郷茂徳という外務大臣で、お母様がドイツ人で、とても美しい方なのよ。外務省の方と結婚されたから、今も外国に住まわれているわ。」(稲田悦子談)

 

東郷茂徳といえば、太平洋戦争のときの開戦と終戦のときの外務大臣を勤めた。
欧州から帰国してまもなく、家が建つまでの間ドイツ人のエディ夫人、娘のいせ嬢と共に、山王ホテルに仮住まいした。同ホテルの地下はスケートリンクが広がっていた。


ちなみに日本のフィギュアスケート界には、「東京裁判」関係者の子孫が多数いて、元華族や皇族に近い家柄は少しも珍しくない。スケートの歴史はスポーツや文化の昭和史そのものといえた。

明治維新以来、欧米に追い付け、追い越せ、としゃにむに突っ走ってきた日本。大正から昭和にかけて、そのつけが返ってきた、

第一次世界大戦勃発時と関東大震災の復興景気。一時的に息をふきかえしたものの、その反動で大不況という繰り返し。


日清日露戦争第一次世界大戦を終え、建国以来負け知らず。

アジアの小国だというのに、欧米から、脅威の眼差しを注がれつつある。

商人(あきんど)や軍人たちは活気づいていた。が、その反面、税金や徴兵といった負担が、庶民の生活に重たくのしかかってきた。

そもそも日本国民は明治以降、3年の兵役が義務付けらていた。働き盛りの働き手を引き抜かれてしまう。
現役が2年、残りの1年が帰休という制度が昭和2年までつづく。

軍人以外の人間は広く、「地方人」と呼ばれた。

1930年、ロンドン軍縮会議で軍備拡張が規制される。大正の時代はそれまでと一転して、「軍縮」の時代となった。

大勢の将校クラスが退職に追い込まれた。不景気の世に投げ出され、社会の仕組みや流れに憎しみを抱くようになる。

 

 

「昭和のはじめは暗い時代だったなんていいますけど、大阪は活気があって、ものすごく華やかな時代だったのです。震災の影響もなく、貿易は空前の黒字で、工業や商業でものすごく栄えたんですね。その後、東京の巻き返しもすごくってね。私が山王スケート場で練習しはじめた頃は、震災で全部がつぶれた後、首相官邸とか、料亭とか、兵舎とか、どんどん建っているところだったんです。あのリンクでは華族や皇族の方たちが“では、ここでお回りあそばせ”なんて言って、くるくるっとスピンを回っていましたわ」(稲田悦子談)

 

当時の物価だと、初任給は50円ぐらいの会社が多かった。
例をあげると、大学をでて郵便局に就職したら手取りは40円。まかない付きの下宿代が37円、残りの3円で生活しなくてはならない。

もっとも牛丼のような軽食や弁当なら10銭ほど。”ギザ”をよばれるフチがぎざぎざの50銭銅貨があれば、まともなレストランで食べて映画や芝居を見ることもできた。

月給60円、70円となれば一流企業。士官学校を出た将校クラスとなれば、月給100円。
1円札は“いのしし”の絵が描かれていたので、

「散財して、いのしし一枚が消えたよ」

みたいな言われ方がはやった。

背広は1着で5-60円、タキシードならその倍する。

思いきって50円でミシンを買うと、内職ができた。
米国フォード社が日本にもちこんだ“月賦”払いが流行した。

1920年代の月刊スポーツ雑誌「アサヒスポーツ」をめくっていくと、まず美津濃が「東洋専門大商店」というキャッチフレーズで、裏一面に広告を載せている。
他のページも運動具店の宣伝が多く、筋肉痛の薬や保険会社もいくつか目につく。やはり関東大震災の影響なのか、そうした広告主は大阪の住所が半分以上をしめていた。

六甲山や海に囲まれた神戸、灘、西宮、芦屋、宝塚、伊丹、尼崎といった風光明媚な阪神一帯。中でも神戸は東洋最大の港湾都市、大阪は日本最大の経済都市として、近代化がめざましかった。

不況を感じさせない。世にいう阪神間モダニズムである。

西洋文化の影響を受けながら、独自の生活様式をはぐくみ、関東大震災の後に移住した実業家や芸術家たちも多かった。


同じ頃、東北地方では働き手を兵隊に取られ、冷害つづきで凶作に苦しめられていた。農村では「欠食児童」という言葉も流行する。娘を都会の女郎屋に売らなくては家族が食べていけない。

もっとも、それは主に東日本のできごと。西日本とはかなり温度差が広がっていた。

 

「うちはたぶんお金もちのほうだったと思います。父も母も”ハイカラさん“でしたよ。好きなことをやらせてもらって、幸せでした。だから、私にとって戦争前のこの時期は”華麗なる昭和“というイメージしかないんですよ。従業員もたくさんいて、昔からいる番頭と女中頭以外は若い人ばかりでした。うちで働いている人は幸せだったんじゃないのかしら。住み込みも何人かいてね。母は”おいしいものを食べさせないと、働き手が居ついてくれない“と言って、三度の食事にはとても気をくばっていたもの。

カレーライスはもちろん、ジャガイモをゆででコロッケをたくさん作ったり、ときどきはトンカツもあげてね。トンカツの日は朝からみんなウキウキしていたのを覚えています。休みの日はみんなを連れて活動写真や神社詣でに出かけ、そうそう、初詣でとお花見の宴会は毎年かかせない行事でした。お節句とか盆踊り、お月見など、季節の風物詩も必ず母がしきっていましたわ。」(稲田悦子談)

 

 

悦子が生まれた1924年は、スポーツ史の黎明期といっていい。

まずなんといっても、それまで4年に一度だったオリンピックが夏と冬に分かれて2回、同じ年、同じ国で開催されるようになった。

その第一回冬季オリンピックがフランスのシャモニーが1月25日から2月5日まで開催され、16か国から258人が出場した。

欧米になんとしても追い付きたい日本は、当初この両方に参加する意向で準備を重ねた。ところが、関東大震災が起きたため、シャモニー冬季五輪のほうは自粛する道を選んだ。

同じフランスのパリ夏季五輪は予定どおり5月4日から7月27日まで開催された。
これは冬季五輪よりも規模が大きかった。こちらは18か国が参加し、400人の選手が出場した。

日本はパリ五輪には参加したものの、世界の壁は高かった。

日本人選手団は五輪では予選落ちや途中棄権が続出。広島出身、ペンシルバニア大学に留学中の内藤克俊が、レスリングで銅メダルを勝ち取った。特筆すべき日本人メダリスト第一号である。

同年、日本国内では甲子園球場明治神宮外苑競技場が竣工。

甲子園球場は完成するまでは枝川運動場と名づけられていた。完成すると、甲子年にちなんで「阪神電鉄甲子園大運動場」と看板表記された。

以後数年にわたって、遊園地や動物園や水族館やテニスコートやプールが次々と創立した。
ペンギンの海、ゴンドウクジラのショー、ジェットコースターは人気を集めた。
冬は南東端の臨港線沿いにスケート場も作られ、阪神間モダニズムを代表する一大レジャーゾーンとなった。

 

「戦争前からスケートはものすごく人気があったんです。外国から選手を招待してアイスショーもあったし、愛好家の方たちもたくさんいて、日曜日なんかは本当に人も多かったです。六甲山の上も川や池が凍るとスケートでにぎわったものです。ほら、天皇陛下の弟殿下(高松宮)が江田島にいらっしゃってね。秩父宮殿下も高松宮殿下も竹田宮殿下も、それはもうフィギュアスケートが好きで、しょっちゅういらっしゃった。だから、六甲山も宮様をお運びするためロープウェイも早くからできたんですよ。

陸軍士官学校みたいなところは午前中に歴史や戦術やモールス信号など学科の授業がびっしり。午後は体力作りのため、運動の時間が多く、秩父宮殿下が入学されてから、さらに増えたそうです。ラグビーフットボール、野球、バスケットボールみたいなチームスポーツが多かったけれど、柔道や剣道は当時の男子としては基本でしたね。氷上剣道大会なんていうのもあったし。氷上テニスとか氷上高跳びや樽飛びなんて競技は海外から入ってきたようです。外務省のご子息や秩父宮勢津子夫人や白州正子さんのように海外生活が長かった方たちはアイスホッケーに夢中でしたよ。」(稲田悦子談)

 

 

広島県江田島海軍兵学校に通われたのは、大正天皇の三男、高松宮宣仁親王。兄の秩父宮と同じスケート好きで、六甲山で滑るのを心待ちにしていた。

六甲山といえば、明治時代に開発されたハイリゾート地。神戸外国人居留地の欧米人によって日本で最初のゴルフ場が造成された。周辺の山道もシェール道、シェール槍、アゴニー坂、ドゥントリッジ、トゥエンティクロスなど、今でも外国名が目につく。

早くから「野猿」とよばれる籠屋や人力のゴンドラが交通手段として導入された。
1931年に阪急系の六甲登山架空索道(ロープウェイ)が先行開業。
翌1932年には阪神系の六甲ケーブル線が開通した。

後に阪急系となる六甲山ホテルと阪神系の六甲オリエンタルホテルも営業開始。高級リゾート地の先駆けとして、阪急と阪神は互いにライバル意識を燃やす。

大正天皇には4人の皇子がいた。後の昭和天皇秩父宮高松宮三笠宮である。4人とも剣道と馬術を習い、あらゆるスポーツを体験した。

というのも、明治天皇は側室との間に5男10女に恵まれたものの、5歳までにそのうち10人が亡くなり、男子は一人だけが成人した。当時は冷蔵庫もなく、食中毒や肺結核やインフルエンザが命取りだった。

大正天皇も病弱な体質であった。側近たちは皇子たちの食事や健康にも、ことのほか神経をとがらせ、贅沢三昧に甘やかすのではなく、身体をじょじょに鍛えていく。あらゆるスポーツが推奨され、プールやスキー場も広大な敷地内に用意された。

幼少の裕仁皇太子(昭和天皇)がいちばん気にいったのは、相撲だった。鈴木貫太郎侍従長たちは、ほとんど毎日のように御所で相撲をとり、ときには相撲取りを宮城(皇居)に招待して天覧試合を行ったりもした。

長じてから裕仁は乗馬や剣道はもちろんのこと、ゴルフやテニスもしたし、1日おきに水泳もした。雪の日はスキーにも興じ、二二六事件の当日も皇居でスキー大会を催したと記録されている。ほぼ毎日スポーツ三昧であった。

「スケート以外はなんでもやりました」

と戦後、外国人記者たちの質疑応答で答えている。

弟の秩父宮雍仁や高松宮宣仁は格闘技は好まず、

「テニスはすぐに人が集まってくるから」

という理由で、気がすすまない。

ゴルフ、野球、登山、ハイキング、モーターボート、スキー、スケートといった各種のアウトドアスポーツにめざめ、登山に魅了された。秩父宮マッターホルンに挑んだとき、お付きのものたちは万一のときは自決を覚悟して、小刀を懐に忍ばせた。

吹上御所の池が凍ると、秩父宮はさっそく、高松宮三笠宮や武田宮、あるいは元老、西園寺公望の子供たちを呼び出す。イギリス仕込みのコンパルソリ(規定)を披露した。

秩父宮邸の3階の屋根裏部屋は、仕切りを作らせず、板張りのままにしてあった。公務で運動できなかった日は、夜中に起きて、ローラースケートを練習したのである。
ワシントン育ちの秩父宮勢津子夫人も、高松宮夫妻もたびたびそこに加わった。

その洋館は空襲で焼けてしまい、現在は秋篠宮家に引き継がれている。

 

 

「ともかく、世の中にさまざまなスポーツがあるでえしょうが、スケーティングほど身体のためになって面白いものは知りません。でも、これをしっかり身につけるには、ステップ・バイ・ステップですね。天性もあるのでしょうが。でも、氷とエッジの感触がぴったりとのっているときの醍醐味、溶けるような触感、音楽と滑って音と一体になっているときは、本当に幸福ですわ」(雑誌「丸」稲田悦子インタビューより)

 

 

1924年3月15日に創刊された月2回発行のスポーツ専門誌「アサヒスポーツ」をめくると、スケート、スキー、ラグビーの記事が多く目につく。

1925年3月1日号の表紙は、「日光金谷ホテルでスケートの興ぜられる久邇宮朝融王同妃殿下」というキャプション付。今のものとあまり変わらないスケート靴を履いたカップルが、氷の淵で木の長椅子に腰かけ、幸せそうに微笑んでいる。

表紙の裏は海外通信社からの写真で、氷上テニス。ふつうのテニスと同じようなコートで、スケート靴をはいた4人がダブルスでラケットを手に対面している。

 

「今回は久邇宮朝融王のお供をしてまいり、妃殿下は今日にして僅々三日目に 御二人共既にバックワードを御習得被遊」(「アサヒスポーツ」1925年3月1日号より)

 

およそ3ページに渡って青森県の盛岡、宮城県の仙台、栃木県の日光、長野県の諏訪湖のスケートめぐりについて、日本スケート会の創立に尽力した川久保子朗が、練習風景や内容をレポートしている。

 

他にも米国クリーブランドのプロフェッショナルスケーター、オシツケー君は12個並べた樽を見事に飛び越し、樽跳びの世界記録を保持しているという記事と写真。かなりの跳躍力だ。

「同君は写真の示すとおりあまり高くは跳ばないが、猛烈なスピードと腰のひねりぐあいで十分跳び越すのだそうだ」

と記述されている。

スケートの最大の魅力は、スピードといい、ジャンプといい、陸の上では到底できないことが氷の上では実現できてしまうこと。

その点では昔も今もさほど違いがない。不変の吸引力がスケートには備わっていた。魔力といっていい。人の心をわしづかみにしてしまう。

秩父宮高松宮も、元老西園寺公望の息子や孫たちと一緒に、冬の旅を楽しみにしていた。

後に226事件で銃殺される安藤輝三も、教育士官だった秩父宮からスキー旅行に誘われ、スキー道具を承っている。

うっすらと霧がかかった屋外スケート場は、室内とはまた違った楽しさと美しさにあふれ、笑いがとだえなかった。遠くに山々が重なり合い、雪は銀色の折り紙がひらひらと舞うようにはかなく、幻想的だ。

東北や北海道行きのスキーやスケート特別列車の運行が時刻表に組み込まれ、至る所で広告やポスターを目にするようになった。冬山は夏と違って奥深くまでは登頂できないから、スキーとスケートは娯楽のパッケージとされていた。

満州(現中国東北部)でもスケート列車は盛んに宣伝された。

日露戦争の後、日本は1905年から関東州の租借権と満鉄(南満洲鉄道)を得た。日本人は面倒な手続きを取らなくても、自由渡航が認められるようになる。

夏目漱石与謝野晶子のような有名人は次々と招かれた。満州鉄道の「あじあ」やヤマトホテルで豪華な旅を楽しむ趣向だ。彼らはそれを著述し、歌を詠み、ときには旅記事として紹介した。
 
それが次なる宣伝へとつながる。

1924年には満州国への旅行者が1万人を超えた。

朝日新聞の主催で「満韓巡游船ろせった丸」が運行されるとm379人が参加。
修学旅行で訪れる学校も増えた。
文部省と陸軍省の提携で全国中学合同満州旅行が行われ、3694名が戦跡を観光している。

満州の冬は気温マイナス30度が珍しくなかったから、そこら中にスケート場ができた。広野なのでスキーよりも、スケートとソリが便利なのだ。娯楽としてだけではなく、交通手段のひとつでもあったから、スケート靴やソリを陸軍におろす工場も作られた。

もちろん兵隊たちの訓練にもスケートは導入された。スケートを習得してしまうと、ソリや自転車も体のバランスの取り方が似通っているらしく、すぐに乗りこなせる。陸軍の自転車部隊は大陸をかけまわる原動力となった。

親や祖父母が満洲でスケートをはじめたというコーチも多い。テレビタレントのタモリの母親も結婚する前は、スピードスケートでオリンピックをめざしていた。

満鉄映画の看板女優だった李香蘭こと、山口淑子も「迎春花」という映画でスケートを披露した。

「楽しい満州」というレコードでは「なんの寒かろ スケート暮し」と歌いあげている。

悦子も長じてから李香蘭と一緒に練習したり、慰問したり、満州で就職する運命にあった。(つづく)