稲田悦子物語

著・梅田香子 YOKO UMEDA

プロローグ

皇居にほど近い神宮アイススケートリンクでは、秋篠宮眞子さま佳子さまのような皇族が到着されると、全職員が仕事を中断、玄関に集合しなくてはならない。

コーチたちも二列に並んで、深々と頭を下げる。

その真ん中をプリンセスたちは、しづしづと制服のままロッカールームへ向かって歩く。

この儀式は宮内庁からの指示ではなく、礼儀作法に厳しかった稲田悦子の発案ではじまったものだ。

リンクの中央では7人のSPたちが輪をつくる。

一般のスケーターたちはそこで滑ることは許されなかった。

リトル・プリンセスたちも長じると、リンクいっぱいのスペースで颯爽と滑るようになった。SPたちは氷の上にのるのはやめた。それぞれが距離感をもって、柱の影から警護するようになった。

この物語では日本のフィギュアスケートの黎明期を支えた人物たちの生涯をたどっていくつもりだ。おそらく世界のスポーツ界や社交界の歴史、昭和史そのものとなるはずだ。

皇族もいれば、華族もいる。大臣の家族たち、兵隊や庶民たちも、スケートの魅力の恍惚と魅せられ、戦争で中断を余儀なくされると、満州や欧州に思いを馳せものだった。

 

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ヒトラーの手って変なのよ。ぷよぷよして柔らかくって、気持ちが悪かったの。背も低くて、お化粧しているみたいな顔だったわ」―――――――稲田悦子

 

アドルフ・ヒトラーと握手したことがある唯一の日本人女性、それが稲田悦子だった。

1936年。日本人女性としてはじめて冬季オリンピックを果たす。 選手団の中でもひときわ背が低かったので、遠目でも悦子のシルエットは簡単に見分けがつく。12歳という最年少でオリンピックに出場した記録は、年齢制限ができてしまった今、もう誰もやぶることができない。 開会式でスピーチしたヒトラー総統が大会主催者へ向き直り、

「あそこにいる小さな日本人の子供はここにいったい何しにきたのだ?」

フィギュアスケートの選手ですよ」

それを聞いて側近のゲッペルス宣伝大臣の目がぎらりと光った。

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さて、悦子にはもうひとつ、女性史において誇るべき功績がある。 男子を出産した後、復帰して26歳でミラノの世界選手権に出場したのだ。

昭和天皇ご自身以外、高松宮三笠宮をはじめ、浩宮礼宮や美智子妃といったほとんどの宮様を指導された。皇居の園遊会にも招待されるようになると、

「すっかり東京言葉になってしまっていたから、若い選手は稲田先生のこと、大阪出身とは知りませんでした。宝塚でアイスショーを指導していたから週に一度は大阪に通っておられました」

 と当時を知る教え子たちは話している。